既存の「ともだち」にメリットを見出せば「つながり」になる

課題の整理

・人生において「自分だけで解決できない問題」は付き物
・それを解決する仲間(自分とウマが合う&自分にとってメリットがある関係)が必要
・そのための有力な手段は、自分を発信して共感出来る仲間を探すこと
・しかし、自分を発信することが不得手な人もいる
・さらに、上記の仲間の中から「自分とはどこか異質である」人を見極めるのは大変

新規開拓ではなく既存の関係にアプローチ

自身のアウトプットを通して「つながり」を得る行為は、基本的に新しい関係をを求めるものだと思います。
そこで、既存の関係を「つながり」に変える作戦を考えました。

まず、「しがらみ」を「つながり」に変える方法。これは正直難しそうな気がします。
「しがらみ」は、失礼な言い方かもしれませんが玉石混交であり、その中からウマが合う人を探すのは大変です。
仕事等で関わる人数が多いほど、「しがらみ」を「つながり」に変える努力は非効率になります。

では、「ともだち」を「つながり」に変える方法はどうでしょうか。
今までなんとなくつるんでいた「ともだち」に特定のメリットを見出すことで「つながり」にすることが出来るのではないか、と思います。

そもそもどんなメリットを求めるのか

そもそも、私たちは、「しがらみ」や「つながり」にどんなメリットを求めるのでしょうか。
仕事が関係すれば「具体的な解決策」が多いでしょうし、私生活では「情緒的なサポート」も大切になると思います。
どちらも「自分だけで解決できない問題」に対処する上で必要なことです。

そこで、既存の「ともだち」関係において、自分がどんなメリットを得られる可能性があるか考えてみると良いと思います。
「自分にとって特定のメリットがある」というのは、自分が「関わると得するな」と思うかどうかに依拠しているのであり、従って、「得だな」と思うようにしてしまえば、どんな「ともだち」も「つながり」になると思います。

例えば、料理が上手な「ともだち」なら「美味しいご飯を作ってくれるつながり」になるし、勉強が得意な「ともだち」なら「わからないことを教えてくれるつながり」になるのでは、と思います。

学生時代の「ともだち」は「異質補完」の宝庫

「ともだち」の最たる例として、学生時代の友人があると思います。小中高大を通じて、ビジネス上のルールや建前などと関係無く意気投合した友人は、紛れもなく「ともだち」であると言えるでしょう。

そんな「ともだち」にメリットを見出して「つながり」に変えることは、意味のある取り組みだと思います。

さらに、その「つながり」は「異質補完」の宝庫ではないかと思います。

1つ目の根拠は、学校は色んな人が集まる場所だからです。会社やセミナー等は、似通った興味関心や志向の人が集まりやすいと思います。他方で、学校という場所には、自分と考え方や生活スタイル等が異なる人がいっぱいいると思います。

もちろん、進学校であれば、ある程度思考様式が似ている人が集まるかもしれないし、地元の学校であれば、地域性という点で似通ってしまいます。

それでも、「仕事やビジネスで上手くやるためには...」とか「収入を増やすには...」なんて考えずに、部活に全力だったり、ゲーム漬けだったり、どうやってクラスの笑いをとるか考えたり...色んな人が色んな方向を向いている学校という場所は、自分と異なる人だらけなのだと思います。

異質の定義

2つ目の根拠は、少し極端なのですが、「仕事においてメリットが得られる時点で同質補完」という見方も可能ではないか?というものです。

これについて考えるために、「同質」「異質」の定義を確認したいと思います。

「同質」「異質」の定義は簡単なようで難しいです。字義通りに解釈すれば、「同質」とは「互いに似ていること」であり、「異質」とは「互いに似ていないこと」です。

しかし、「似ているか否かの判断基準は?」、「似ているか否かの判断をするのは誰?」、「似てるところもあれば似てないところもあるんですけど💢など、疑問が尽きません。

自分たちは「似ているな」と思っていても、第三者からは「似ていない2人」と思われているかもしれないし、「自分とあの人、似ているような似ていないような...」という状態も意外と多いような気がします。

「同質」「異質」は、それだけ曖昧かつ恣意的な分類を招く可能性があるわけです。
もちろん、「あの2人めちゃくちゃ似てるな」とか、「全然タイプが違うな」という場合もあるでしょう。
「同質補完ではなく異質補完が大切です」という発言があった場合、こうしたわかりやすいケースを想定しているのだと思います。

でも、それって意味がない気がします。
もしかしたら「めちゃくちゃ似てるな」と思われている2人はお互いを「全然似てないな」と思っているかもしれないし、実際に周りの評価が的外れな場合もあり得ます。

少なくとも、同じ会社内でチームビルディングをする際に、「彼らは同質か異質か」なんて考えるのは、なんか変だと思います...笑

そこで、「同質」や「異質」について、「この人は自分となんか違うな」といった曖昧な判断軸に代わって、「特定のメリットが得られるか」「一緒にいて楽しいか」という基準で考えてみたいと思います。
これらの基準を「しがらみ軸」と「ともだち軸」と名付けることにします。

しがらみ軸
・同じメリットが得られるなら「同質」
・異なるメリットしか得られないなら「異質」

ともだち軸
・ウマが合うなら「同質」
・合わないなら「異質」

この定義に従うと、「異質補完」を目指したチームを組むなら、「異なるメリットしか得られない関係」か「ウマが合わない関係」を採用することになります。
しかし、補完関係が奏功すれば、仕事における成果という同一のメリットが生じてしまうので、「しがらみ軸」での「異質」は実現不可能になります。従って、「異質補完」のためには「不仲な関係」を採用する他ありません。

しかし、チーム内に不仲な人がいて成果が出るんでしょうか...。そもそもウマが合わなければ「補完関係」にならないと思います。
また、もし上手くいったとしたら、その2人は打ち解けて不仲(異質)ではなくなっている可能性があります。
さらに言えば、同じ企業にいる時点で、ある程度の性格や志向が「同質」であり、「ともだち軸」で全くの「異質」になることは起こり得ないかもしれません。

なんだか「とんち」みたいになってしまいましたが、先の定義に従えば、単一企業内での「異質補完」は論理的には起こり得ないことになります。

「ともだち軸」において「異質」でも、「補完関係」にはなり得ません。また、仕事におけるメリットが生じる時点で、「しがらみ軸」でも「異質」にはなり得ません。
従って、「異質補完」が可能な「つながり」を会社に求めることは出来ず、それゆえに学生時代の「ともだち」は潜在的な「異質補完」の宝庫であるとみなすことが可能だと思います。

「ともだち」の「つながり」化における課題

自分がメリットを感じるかどうかで、「ともだち」を「つながり」に変えることが出来ます。一方で、課題となることが2つあります。

1つ目は、「今抱えている問題」の解決に繋がるメリットを持った人がいるとは限らないことです。

いくら美味しい料理を作ってくれたり、励まして元気付けてくれたとしても、仕事上の課題に対する具体的な解決策を提示してくれるわけではありません。

ただ、そもそも「つながり」を得ること自体が容易なことではないですし、「ともだち」を「つながり」に変える本領は「異質補完」にあるので、この課題は気にしても仕方ないと思います。

2つ目の課題は、多少なりとも「発信」が必要なことです。
いくら気の置けない友人だからといって、頻繁に連絡を取り合っているわけではありません。
中には「昔はめちゃめちゃ仲良かったけど最近全然連絡取ってないや」なんて人もいるかもしれません。

相手が友人であっても、アウトプットを伝えることや、そもそも連絡を取ることが負担になります。
こうした負担を軽減するには、手始めに本当に仲の良い「ともだち」を「つながり」に変えてみると良いと思います。

そもそも「ともだち」=「つながり」説

今までずっと、「ともだち」と「つながり」を別のものとして考えてきました。その違いは、「自分にとって特定のメリットがあるかどうか」です。

しかし、そもそもメリットのない「ともだち」関係なんてあるのでしょうか?

人生において、友人は大切な活力資産の1つです。「一緒にいると楽しい」関係は、幸せに生きる上で不可欠なものだと思います。
そもそも、「一緒にいると楽しい」こと自体がメリットなのかもしれません。
※ただ、これだとお互いに「一緒にいると楽しい」というメリットが得られるので、同質補完になってしまいますね。

また、短期的には「同質補完」、長期的には「異質補完」が良いと聞きました。
私の定義に従えば、「自分は勉強が出来るから色々教えてあげる。その代わりに、ご飯を作ってもらったり、励ましたりしてもらう」ことが「異質補完」の典型例ということになります。

なんだかまるでパートナーみたいですね。長期的に自分を支えてもらうって、パートナーを増やす感覚に近いのかなと思います。

ともだちドリブン

結局のところ、「ともだちは大切」というのが、今回の記事の落とし所な気がします...笑

出会いは一期一会であり、同じ学校に通っていたなんて実は奇跡に近いのかもしれません。
そんな奇跡的な出会いの上で、さらに意気投合した学生時代の友人というのは、本当に希少なものだと思います。

仕事の相談も、私生活の相談も、「一緒にいて楽しい」人たちにすれば、パッと光が見えたり、スッと肩の荷が降りたりするのかもしれません。

自分も昔の友人を大切にしようと思います。

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