寂しさとちゃんと向き合う

寂しいとき、モヤモヤしてるときって、Xやnoteの投稿が増える傾向にある。まさに今がそう。

9月から10月頭にかけて、色々と僕は絶好調だった。スターマリオ状態。仕事はめちゃ忙しいけど、環境が変わって任されることも増えて楽しくて、休みの日も友達と遊んだり、飲みに行ったりととにかく予定を入れまくっていた。一種の躁状態だよね。

そんな忙しさの最中、自分の確認不足が原因で仕事でミスをした。そこでようやく立ち止まったというか、暴走機関車が止まったというか。この連休は、少し最近の自分について考えていた。

ただ、今日は躁状態のときに前の店舗の仲良い先輩を飲みに誘っていたので、あまりその気分じゃなかったけど飲みに行った。仲良い先輩たちだし、それぞれの店の現状報告は、それなりに楽しかった。

僕からLINEで誘いを受けた先輩方は、「じんすけくんが新しい店舗で上手くいかなくて悩んでるじゃないか」と心配していたらしく、あぁ突然の後輩からの誘いはそう受け取られるんだと申し訳なくも恥ずかしくもなった。ちなみに僕は弱ってるときに人に泣きつけるほど強い人間じゃないので、自分が順調なときにしか、人とは会えない。

そう、それなりに楽しかった。楽しかったのに、なんだかそれ以上に寂しさはさらに募った。帰りの電車の中で、寂しさの正体について考えた。

寂しいから人と会って紛らわすは、理にかなっているようでそうでもないのかもしれない。人がちょうど自分の寂しさを埋めるように都合の良い言葉をかけてくれるわけじゃない。人と会うときって、自然とその人から見たこう思われてるだろうな自分を作っちゃうというか、期待されてる自分を少し演じちゃう部分がある。本当の素の自分を100%出せる相手って、なかなかいないから。

元気なときなら、求められたキャラクターを演じることだって楽しいけれど、誰かに自分の気持ちを話したい、理解してほしいときに、誰かに求められる自分をやることは、結構しんどい。今日で言えば、僕は「素直で誠実な後輩」でいなくちゃいけなかった。

そういったのを飛び越えて、僕に人に素を見せる勇気があれば、また寂しさとの向き合い方も変わってくるのだろう。人に本来の自分をさらけ出すことができる人って、強い人なんだと思う。仮にそのことで思った反応が返ってこなくても、揺るがない自己があるというか。僕には、人からの反応次第で凹んだり、否定的になってしまう部分があるから、人の前で自分をさらけ出すことが、上手く出来ない。

寂しいときこそ、誰かと過ごして紛らわすんじゃなくて、寂しいという感情そのものを受け入れることが必要なんじゃないかって思った。明日も朝早いから、そろそろ寝なきゃだけど、ちゃんと感情の整理をすることが、寂しさを受け入れることに繋がると思ったので、そんな寂しさを感じた一夜の記録を残してみる。

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