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ChatGPTのメンタルケアから見る共感幻想


今回はこの記事を見ていきましょう😊

【記事の概要】


・「GPTを活用して自分の心を整理していくことはできないか」という試みで、自分のありのままの気持ちを聞いてもらったり、自分の情報を整理してもらったりしてメンタルケアを自分ですることを目的とする。

・発想の背景には「自分の気持ちを日記に書いて整理してきたが、社会人になって選択の連続で日記を書く気力がなくなり最近サボっているという状況。それならばGPTの力を借りてできないか」があった。

・「心を整理する」という目的でLINEのGPTbotを使ってみたが、正論ばかり返ってきたので「欲しかったのは共感だった」と気づいた


・必要な設定を施してみた結果「ChatGPTやGPTを使って心の整理はできそうだ」ということがわかった。

・自分の情報だけをベースに要約と共感をしてもらうことはできそう。要約と共感が返ってくると実際に理解してくれたような気がして勝手にうれしいという気持ちになった

【心の整理をやらされている?】


難しい言葉を省いて一言でまとめると「機械が自分の機嫌を取ってくれそう」という話です。


ただ、介護現場等で利用されるようになったコミュニケーションロボットにも同じことが言えるのですが、こうしたツールは「決められた枠内に『自分』を閉じ込める」ことで成立しています。


「自分にとっての最適解」が常に一定ならそれでも良いかもしれませんが、生き物である以上「飽き」も来るし「欲」も出ます

その都度再設定をし直すのも、飽きのパターンや欲の傾向を分析して先に用意してもらうのも、結局は「檻の中に自分を閉じ込める」行為となります。


その状態をして「心の整理がつく」と言えるのかは人それぞれです。

【自然の摂理から離れていけば】



「面倒だから誰かやってくれないかな」とは誰もが思うことですし、そうした欲を叶えるために文明は発展してきた所があります。


ただ、「自分のことを誰かにやらせる」ならば「誰かのことを自分がやる」のとセットでなければ筋が通りません。

「あらゆる命は自分の力で生きていく」のが自然の摂理ですから、自分の問題を一方的に誰かに肩代わりさせてしまうと肉体的・精神的に不調和が生まれます


たとえば車や電車などの移動手段が発展するほど人の運動量は偏り、多くの人が生活習慣病に陥るように😨

あるいは「便利である」ことに慣れた結果、少し待たされることにも耐えられなくなってイライラするように🤬


世の中は気づかないところで「楽した分以上の負債」を背負うようになっているのです。


それだけに『機能』として心の整理を付かせるものが作れるのだとしても、その機能を使う代償として自主性を失うことになります。

それは次第に「自分が今ここで生きている『意味』」をも失うことにつながりますから、命の価値を忘れていく流れになります😱


便利なモノ・コトが発展するほどヒトの病が複雑化・深刻化する社会を見ていれば、このことがよくわかるはずです。

【正しさ信仰と主体性】



自然の摂理から離れていけば行くほど「生き物である『意味』」がなくなる訳ですから、ヒトは次第に「こうすれば間違いないもの」にすがって生きていくようになります。


今だとそれは『科学的根拠(正しさ)』であり、現代社会は


「科学的に正しければ、人が被害を受けようとも『被害を受けたその人が悪い』で片付けられる社会」


になっていることは、2020年以降のコロナ禍で誰もが体験されていることですね😔


人がより良く暮らしていくために生まれてきたモノ・コトのもたらす「正しさ」がヒトを苦しめる事態に陥り、なおそれを「良し」とする有様は信仰に近いものを感じます。



そして、モノにしてもコトにしても『それらを生み出したヒト』がいる訳ですから、科学的根拠にせよ信仰にせよ、それに従って人が動く方が都合が良いのは言うに及ばず。

それらをあくまでツールとして使う主体性こそこれからの時代には必須となる訳ですが、2020年からの日本を見ていればそうした主体性を期待するのは酷だと言えます😰


だからこそ、再三お話しする通り、2023年に映画「君たちはどう生きるか」が上映された『意味』はとてつもなく大きいと感じています。

【まとめ -共感幻想から抜け出す-】



今回はメンタルケアとChatGPTについてみてきました。


「共感」とは「共に感じる」と書く訳ですが、ChatGPTをはじめとしたテクノロジーが再現できるのは擬似的な共感ですし、それ自体に良し悪しはありません。


ただ、世の中で騙られる『共感』のほとんどは実態として一方通行であり、「共に同じように感じていることにしたい」だけであり、「共に感じられてはいない『事実』」から目を逸らした幻想なのです。

その中に生きる私たちにとっては「共感できたことにしたい相手」が人間であれテクノロジーであれ大差ないどころか、人間よりも精度の高いテクノロジーの方が理想的なのかもしれません。


元々幻想の中で生きていたいだけなのだから。

自分にとって都合の良い世界を求めているだけなのだから。


そうした個人主義、「私がどう生きるか」ばかりにこだわった結果が報道される数々の事件の原因であり、心身の病であり、コロナ禍であり、正しさ信仰であること。

自然から目を逸らして周りが見えなくなった代償はあまりにも大きく、気がつけば「持続可能な社会」を目指して自分たちを生かしてきた自然を破壊する『矛盾した事態』がそこかしこで見られるようになりました😭



周りを見渡せば「私以外」がたくさんあります。

ただ「こうした方が良い」という価値観を共有した結果、本来違うものを「同じもの」にさせられてしまった訳です。


みんな同じ髪型、服装で同じ時間に家を出て、

同じ時間に同じことを学び、働き、

同じようなものを食べ、同じようなものを見聞きし、

同じように眠り、やがて同じような病に倒れて天寿を全うされる。


この『同じ価値観』から生み出された中では「みんな同じ」という共感が生まれやすく、「同じように感じられている」という状況が生み出しやすいのはイメージしやすいでしょう🤔


でも、本来はみんな「べつのもの」。


誰一人、何一つ同じものはなく、それぞれが自分のできる範囲の選択と責任によって生きていくのが自然の摂理です。


そんな世界だからこそ「私が生きる」には「私以外を生かす」ことが先で。

自分とは違う「誰か」「何か」を認めて生かそうとする意思、その主体性こそを『愛情』と呼ぶのです。


みんな違って、みんな良い。


それが「私たちはどう生きるか」を考える前提であり、それを感じにくくなった世の中だからこそ「君たちはどう生きるか」が問われているのです。


共感幻想から抜け出し、「あなたと違う私」が「あなたを大切にしたい気持ち」を伝えること。

不器用でも、伝わらなくても、その営みこそが美しい。そう思うのです☺️



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