【エッセイ】目的なくTSUTAYAをブラブラするのが楽しかった

TSUTAYAの閉店ラッシュとコンテンツ産業の隆盛

一昔前までは、どこにでもあったTSUTAYAが近年は続々と閉店に追い込まれている。TSUTAYAを運営するトップカルチャーは2021年にレンタル事業からの撤退を明言したがそれ以前からTSUTAYA店舗の閉店ラッシュは始まっていて、かくいう僕が中高生の時にお世話になっていた最寄りのTSUTAYAも2020年に閉店してしまった。

TSUTAYAが続々と閉店していく直接的な原因となっているのは、NetflixやU-NEXTなどの定額ストリーミングサービス(サブスク)というビジネス上の対抗馬の勢いが増していることだろう。しかし、その背景には、そもそも映像作品や音楽作品をどのように受容するのか、ということについての人々の意識が近年、如実に変化してきたということもあるのではないか。

その意識の変化は、近年になって「作品」という言葉に代わって、急速に「コンテンツ」という言葉が使用されるようになってきたことからも分かる。"content"という英単語は、元々「内容」や「中身」を意味するが、近年使われるようになった「コンテンツ」という言葉は特に、電子データによって提供される情報の中身という意味合いで使われることが多い。

音楽学者のニコラス・クックは、音楽のレコードについて、聴覚的な音楽の要素だけでなく、レコードジャケットという視覚的な要素までをも含んだ総合芸術作品である、というようなことを述べておられるが、現代のコンテンツ産業において音楽や映画とは総合芸術作品どころか、飽くまでも電子的な「情報」である。そのため、レコードや書籍の表紙を眺めたり手触りを楽しむ行為や、レコードやCD、DVDをコレクションする楽しみ、それからそもそも実際の店舗を訪れてディグするといった、鑑賞する行為に付随していた様々な経験は、飽くまでも情報のみを重視するコンテンツ産業においては全て削ぎ落とされることになる。

稲田豊史さんの『映画を早送りで観る人たち』2022、光文社新書は、まさにそういったコンテンツ産業における消費の実態を描いた本である。この本には、倍速視聴やファスト映画など、音楽や映像作品の受容にとにかく「タイパ」を求める人たちが登場する。そういったタイパを追求する人たちは、作品自体の鑑賞を楽しむというよりも、他の人との話について行くために内容を効率的に頭に入れておきたい、というようなプラグマティックな動機でコンテンツを消費していることが多いのだという。一昔前のように皆んなが同じテレビを観ていたような時代とは違い、様々な娯楽が溢れた現代ならではの現象と言える。こうしたタイパを求める人たちからすれば、わざわざ店舗に足を運んで一枚一枚にお金を払い、しかも1週間しか観ることの出来ないというレンタルビデオから離れていくのは当然のことだろう。

このように、鑑賞する「作品」から、情報=コンテンツへ、という意識の変化が、現在レンタル事業が衰退しストリーミングサービスにとって代わられていることの背景にある一つの要因と考えられるのではないか。

ここまで、ダラダラとコンテンツ産業の悪い側面について書いてきてしまったが、もちろん、僕もネトフリとかU-NEXTをめちゃくちゃ使っているし、倍速視聴こそしないものの、いうてZ世代生まれの人間なので、そうしたくなる人の気持ちも分かる。しかし、その一方で、鑑賞体験が変化していくことで失われていく経験もあることを考えると少し寂しい気持ちにもなるのである。

目的なくTSUTAYAに立ち寄る

そんな失われていく経験の一つが、目的もなくフラッとTSUTAYAに立ち寄って、30分から1時間くらいウロチョロして、ピンと来た作品を借りるという行為である。視聴する作品選びにも出来るだけ時間をかけたくないタイパ重視の人々にとって、こんなもんはアホみたいにタイパが悪い行為だろう。でも、僕にとってはこれがなんか楽しかったのである。

作家の金原ひとみさんは、TSUTAYAで出会って好きになったバンドについてのエッセイ(『パリの砂漠、東京の蜃気楼』2020、集英社文庫に所収)の中で、「目的なくTSUTAYAに入るくらいだからきっと憂鬱だったのだろう。」と書いているが、僕も何となく憂鬱で真っ直ぐ家に帰りたくない時とか、嫌なことがあった時とかによく目的なくフラっとTSUTAYAに寄っていた。現代は、目的に適った行動や効率性がどの時代にも増して求められる傾向にある。それには良い面もあるのだろうが、ずっとそうしていると息が詰まりそうにもなる。そんな時に、目的なくフラっとTSUTAYAに入って、ただただCDやDVDの棚を眺めながら歩く、そして気になったCDを試聴したり、DVDを借りる。すると不思議とリフレッシュされるのである。

それから、目的なくTSUTAYAに行くことの利点は、いわば偶然の出会いが発生する可能性にもある。TSUTAYAをブラブラと歩いていると自分の嗜好から外れる作品も必然的に目に入ることになるので、普通なら目に留めないような全然違うジャンルの音楽や映画に出会う可能性があるのである。僕も、何かホラー映画を観たいなと思ってTSUTAYAに入って何故かコメディ映画を借りて出てきたり、グレン・グールドのCDを借りるはずが何故かメガデスのCDを借りて出てきたことがある。哲学者の東浩紀さんは、予期せぬコミュニケーションや情報の伝達が起こることを「誤配」という言葉で肯定的に論じたが、TSUTAYAに目的なく立ち寄る行為には、まさにその「誤配」の楽しさがあったのである。

しかし、こうしたTSUTAYAをウロウロする経験も、店舗の閉店ラッシュが進むにつれて徐々にノスタルジーの対象となっていく。

「遊歩者」が消えていく時代

僕は、このエッセイでTSUTAYAに目的なく入ってブラブラすることの楽しさを語ったが、こういう行為が楽しいのは何もTSUTAYAに限らず、本屋でもデパ地下のスイーツコーナーでも同じだ。

そして、これをどんどん歴史的に遡って行くと、ヴァルター・ベンヤミンが注目したことで知られる「遊歩者」(フラヌール)と呼ばれた人たちに行き当たる。遊歩者は、近代になって初めて登場した存在で、19世紀前半のパリに誕生した「パサージュ」と呼ばれる商店街を目的も持たずにブラブラと歩き回る人たちのことを指す。つまり、TSUTAYAをブラブラしていた僕や、デパ地下でスイーツめぐりをする人たちの遠い祖先と言える。近代から現代にかけての時代は、ショッピングが娯楽化し、こうした遊歩する人たちが多く誕生する時代となった。

しかし、今やネットショッピングやストリーミングサービスが普及したことで、遊歩する人の存在は少しずつ小さくなっていくのではないだろうか。

もちろん僕も、ネットショッピングを使うし、ストリーミングサービスも使う。でも、それと同時に目的もなく出掛けて、偶然の出会いを楽しむ遊歩者の精神も忘れないようにしたいのである。

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