<おうちに帰ろう>(これは2002年か2003年に書かれたものです)
<おうちに帰ろう>
ACという言葉がマスコミを通して流行したことがあった。今やそのブームは終わってしまったかのようだが、今も私のところにはご自分がACではないかとご相談に来られる方がいる。
ACとはアダルトチルドレンの略で、「機能不全の家族に生まれた子供たち」を意味する。わかりやすくいえば、親から充分な愛情を受けてこなかったと感じている人たちということだ。
これは病名ではなく、あくまでも自分で自分を知るためのキーワードとして使われている。つまり客観的な基準みたいなものではなく、主観的なものであることが大事なのだ。
いくらまわりから、ちゃんと育った、あるいは親たちが、いくら自分たちは愛情をかけて育てたつもりだ、といっても、かんじんのご本人が、自分は愛情を受けて来なかったと感じているならば、それはACであるということなのだ。
ACの問題とは、クライアント一人の問題ではなく、家族をめぐる問題といってもいいだろう。その人ひとりを家族という背景から切り取って、いくらカウンセリングをしたって、状況は変わらないのかもしれない。
外からはごく普通と思われる家庭に育った人が、ある日突然「自分はACだ」という心の叫びを上げる。
親は当然びっくりする。平和だったはずの家庭が、訳の分からない子供の抗議で、阿鼻叫喚の状態と化す。どの親もきっとこう思うはずだ。もう訳の分からないことをいうのはやめて元のようないい子にもどって欲しいと。
しかし、その言葉がさらに子供を逆上させる。さらに絶叫し、暴れだし、物を壊し、親に暴力すら振るうかもしれない。
それは私が学んだプロセスワーク(プロセス指向心理学)という心理療法の考え方からすると、対等なコミニュケーションが成立していないからだ。
つまり、一方にヒステリックに叫ぶ妻がいる。もう一方には、冷静にソファに座り、新聞を読んでいる夫がいる。これはケンカではない。
机を間にはさんで、互いに怒鳴り合う妻と夫がいる。これはケンカだ。
どちらが対等な関係だろうか。もちろん、後者のケンカの場合だ。そこでは、どんなに醜く怒鳴り合っていても、対等な関係がある。
家庭内暴力が起きている家庭では、しばしば前者、つまりはヒステリックに叫ぶ妻と、冷静に新聞を読んでいる夫という構図があることが多い。
むろん、「妻」が荒れているACの人に、「夫」が両親に当てはめられる。
プロセスワークでは、コミニュケーションについてこういう法則があるとされている。ランク(地位とかの意味。たとえば社長は平社員よりランクが高い。また男は西洋社会においては女性よりランクが高いとされる。誤解してはいけないがこのランクの上下はあくまで社会的なものであり、人間としての価値の上下とは一切関係ない)の高い者は、ランクの低い者のいっていることがよくわからず、しばしばその発言を無視してしまうことがある。そのためランクの低い者は、ときにヒステリックになって、大声で叫んだり、暴れたりしてしまうとされている。
家庭の中で、こういう状況にACの人たちは置かれていることが多い。またAC の人たちは、このコミニュケーションのギャップを埋めようとして、ますますヒステリックになり、その結果このコミニュケーションのギャップはさらに拡大していってしまう。
数年前に、自主制作の映画『レター』の上映会を、ヒッキーネットと横浜市との共催で行ったことがある。私の友人である作家の田口ランディさんもかけつけてきてくれて藤田さんや、他のひきこもり経験者と対談してくださった。
映画は、ひきこもり体験がある藤田さんが自ら演出、出演したドキュメンタリーだった。内容は「しつけ」の名の下に、過去に父親から振るわれた暴力を「あれはいったい何だったのか」としつこく追求していくというものだった。
シーンが変わるとその父親と楽しそうにスキーをしている場面もあったりして、決して父と娘が不仲であったわけではないことを教えてくれる。
しかし、話が過去の暴力のことになると、藤田さんの父親への追求は激しいものがある。そうなると父親はただ、当惑したような表情を浮かべて黙り込んでしまう。その姿にさらにいらだつ藤田さん。そういうやりとりが淡々とつづられていく。
最後のシーンは前田さんが父親に向かって「私が生まれたときどんな気持ちだった」と問いつめ、やがて追いつめられた父親は涙を流しながら「そりゃ、うれしかったさ」と怒ったようにいうところで終わっている。
むかし、高度成長期を支えたオヤジたちは、みんなこんな不器用な男たちだったように思う。妻や子供とまともに会話ができず、口よりも先につい手が出てしまう。たまに酒を飲んで語ることはといえば、まるで浪花節の一節のような、すっかり手垢にまみれたものだったりする。
そういう愛すべきオヤジたちは今も健在なのだろうか。
あの市原悦子と富士田常男の絶妙なコンビがいい味を出していた、懐かしの「日本昔話し」のエンディングテーマの歌を覚えていらっしゃるだろうか。たぶんこんな歌詞だったと思う。
熊の子見ていたかくれんぼ
お尻を出した子一等賞
夕焼け小焼けで
また明日、また明日
いいな、いいな、人間ていいな
ほかほかご飯に、あったかお風呂
子供の帰りを待ってるだろな
みんな帰ろう、おうちに帰ろう
デンデンでんぐりがえってバイバイバイ
この歌詞を、いつか下の娘がこう替え歌にして歌っていた。
熊の子見ていたかくれんぼ
お尻を出した子腫れちゃった
夕焼けみたいに
腫れちゃった、腫れちゃった
不便、不便
人間って不便
少ないおかずに、ぬるいお水
子供の帰りを待ってないオヤジ
みんな帰ろう、おうちに帰ろう
デンデンでんぐり返ってバイバイバイ
この「子供の帰りを待っていないオヤジ」という替え歌のフレーズにはまいる。私も一時期、そうした仕事にぐれたオヤジの一人だった。『レター』の藤田さんのお父さんとちっとも違わない。
世のオヤジたちは「会社」という収容所に拉致されてしまっている。ようやく定年になって、家にもどることを許されても、長年不在だった家庭にオヤジの居場所はもはやどこにもない。
仕事にぐれたオヤジたちは、日々の会社でのストレスをどうしてか家にまで持ち込んでしまう。そして、イライラとした暗い波長を辺りに放射し、ついついなんの罪もない妻や子供たちに当たってしまう。
しつけなどといいながら、おのれのイライラを子供たちにもぶつけてしまう。どうか許してやって欲しい。オヤジたちはみな、「戦え!戦わなければ追い落とされるぞ」などという、貧しいマインドコントロールにすっかりかかってしまっているのだ。
だからといって、あなたの心の叫びが封殺されてしまっていいわけはない。あなたが理性を失ってでも暴れなければ、家族の誰もがそのことに気づかないのかもしれない。
そのためには「おうち」は一度、徹底的に解体されなければいかないのかもしれない。その結果たとえあなたが独りぼっちになろうとも。
でも、私はこう思う、たとえあなた一人となってしまっても、あなたがいるところが、そのままそれがあなたの「おうち」になるのだと。
あなたはもしかすると、生活保護をもらいながらたった一人でアパートで暮らしている孤独な「精神障害者」なのかもしれない。
あるいは、つい最近長年寄り添ってきたパートナーに先立たれてしまって、わびしく一人きりの食事をたった今、そそくさとすましたところかもしれない。
運悪く暖かい家庭というものに恵まれず、自分の本当の親はきっとどこかにいるかもしれないと、窓辺でひそかに夢想している少女なのかもしれない。
でももうこれ以上、親やパートナーから充分な愛情をもらって来なかったなんて、不平不満をいうのはやめにしよう。
愛情は誰からかもらったり、あるいは誰かにあげたりできるものではない。それは本来生まれたときに、あなたにたっぷりと一生分プレゼントされているはずのものなのだ。
ただそのことを私たちは生きていく間につい忘れていってしまう。
一人でもけっして寂しくなんかない。ただあなたは生まれたときから、愛を持って生まれた存在であるということを思い出せばよいだけのことだ。愛はあなたの外にではなく、内部にあるのだ。
あなたにできることがある。まず今、自分のいるところを暖かい場所に変えていくことだ。いつまでもそうしてくれる誰かを待っていてもダメだ。ただあなたの中からしか、温かい「おうち」は生まれてはこない。
さあ、みんな帰ろう、おうちに帰ろう。デンデンでんぐり返って、温かいぬくもりが待っているあの懐かしいおうちへと。
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