関口宏

1957年、横浜市生まれ。元「文庫こころのクリニック」院長。不登校、ひきこもり、発達障…

関口宏

1957年、横浜市生まれ。元「文庫こころのクリニック」院長。不登校、ひきこもり、発達障害が専門。 著書に「不登校とひきこもり」講談社+α新書。

最近の記事

<最終章 黄金時代 (少年期総論)>

<黄金時代> 僕の精神史に大きな影響を与えた漫画と映画がいくつかある。 まずは、漫画から。 僕が小学校二、三年のとき、楳図かずおのホラー漫画が最高潮にたっしていた。とくに「ヘビ女」シリーズがすごかった。 病院から退院してきた母親が、ヘビ女の刷り代わりだったり、貧しい少女が養子にもらわれていつた家の母親がヘビ女だったり。家庭という逃げ場のないところが舞台となっているのも怖かった。 当時かなりの怖がりだったので、人のいるところでしか読めなかった。 小三から小四にかけては、月間「

    • <第三章 黄金時代(少年期総論)>

      子供にとって、駄菓子屋は宝島だった。食料から武器から何でも手に入った。 僕が一番行っていた駄菓子屋は、家から歩いても五、六分もかからない、お三の宮商店街にあった「五厘(りん)屋」という店だ。五厘という貨幣価値は戦前のものなので、あるいは相当昔からやっていたのかもしれない。 店はおもちゃ屋ということになっていて、奥まったわずかなスペースで、駄菓子屋をやっていた。 店番はお婆さんだが、おもちゃを買いに来た大人には、愛想よくしていたが、我々子供に対しては、つっけんどんだった。 スペ

      • <第二章 黄金時代(少年期総論)>

        僕は一人っ子だった。僕の名前の宏は、父の名がトオルなので、父が通った道を広げる、という意味でつけたという。 だから、遊び相手は、近所の仲間か小学校の同級生かだった。僕は関東学院という私立の小学校に通っていた。 入学試験を受ける前に、受験塾みたいな所に通ったのを覚えている。そんなものが当時からあったのだ。部屋の中に、いくつか物が置かれており、どういう順番で持ってくるか、などの試験を受けた。重いものは最後に、というのが正解らしい。 私立の学校だけあって、いい家の子供が多かった。釣

        • <第一章 黄金時代(少年期総論)>

          <黄金時代> 「子供は子供だったころ、木に向かって槍を投げた。大人になった今も、その槍はまだ揺れている」  ギュンター・グラス 『ベルリン天使の詩』より 子供のころ、僕はガキ大将だった。配下は小学校高学年が、5、6人いただろうか、ごく小さな遊び集団だった。 ガキ大将といっても「ドラえもん」に出てくるジャイアンのように、力で支配していたわけではない。 独裁者のように、力では人を支配できても、仲間をついてこさせることはできない。 僕がやっていたことは、今日一日、メンバーたちにど

        <最終章 黄金時代 (少年期総論)>

          <美しい魚>(注:これは2003年に書かれたものです)

          <美しい魚>  そこからは、はるばると広がる大地が見えていた。僕たちはまだ24歳だった。広大な大地の上を白く輝く道が何本もうねりながら、遙かに地平線へと消えていく。  しかし、その未来へと向かうはずの道は、裏に回ると、ハイウェイ沿いにある広告看板のように、骨組みだけがただ荒々しくむき出しになっているのかもしれなかった。  僕たちは共に世の動きから取り残されてしまっていた。そして、二人ともまるで春の日の日向のようなエアポケットの中でしばしのまどろみをむさぼっていた。  

          <美しい魚>(注:これは2003年に書かれたものです)

          <狼煙をあげよ>(これは2002年か2003年に書かれたものです)

          <狼煙をあげよ>  先日、クリニックに客人が訪れた。新宿に拠点を持ち、ホームレスを支援している「スープの会」の代表である後藤浩二さんだ。   さっそく後藤さんにホームレスの人たちに関わるには、どのようにすればいいのかとたずねてみた。後藤さんによれば、そんなに特別なこと、たとえばお金を上げるとか、食べ物をあげるとかそういう風に無理に力まなくてもいいのだという。   それを聞いてほっとした。私も街角でホームレスの姿を見たとき、一体どうすればいいのかいつも途方にくれていたのだ

          <狼煙をあげよ>(これは2002年か2003年に書かれたものです)

          <弱さの力、あるいは速度を落とすということ>(これは2002年か、2003年に書かれたものです)

          <弱さの力、あるいは速度を落とすということ>  去年の暮れにひどい風邪をひいて二日ばかり絶食した。下痢がひどく、あっという間に脱水状態になって、体がどんどん干からびていくのがわかり、これはやばいと水分を補給しようとするのだが、胃腸がまるでやけどしたかのように爛(ただ)れて、水すら受けつけない状態だった。  はじめて意識する体験だったのだが、ただの水やスポーツドリンクすら、まるで煮えたぎった重湯のように感じた。なにか濃度が濃すぎて、重すぎて飲み込むことができないのだ。  

          <弱さの力、あるいは速度を落とすということ>(これは2002年か、2003年に書かれたものです)

          <おうちに帰ろう>(これは2002年か2003年に書かれたものです)

          <おうちに帰ろう>  ACという言葉がマスコミを通して流行したことがあった。今やそのブームは終わってしまったかのようだが、今も私のところにはご自分がACではないかとご相談に来られる方がいる。  ACとはアダルトチルドレンの略で、「機能不全の家族に生まれた子供たち」を意味する。わかりやすくいえば、親から充分な愛情を受けてこなかったと感じている人たちということだ。  これは病名ではなく、あくまでも自分で自分を知るためのキーワードとして使われている。つまり客観的な基準みたいな

          <おうちに帰ろう>(これは2002年か2003年に書かれたものです)

          <「ぺてるの家」の清水理香さんインタビュー 幸せは真下にあった>(注:これは2024年に再録を許可されています)

          「べてるの家」の清水理香さんインタビュー <幸せは自分の真下にあった> 2003年の5月に北海道浦河にある、「べてるの家(くわしくは私のエッセイ『べてるの家という希望』をご参照ください)」にいってまいりました。年に一度の「べてる祭り」に参加するためです。いやーにぎやかだったです。そのとき運よく、現在は社会福祉法人「ニューべてる」の施設長をされている清水理香さん(当時33歳)にお会いして、インタビューをすることができました。幸運でした。その内容を私の手元にだけおいておくのはも

          <「ぺてるの家」の清水理香さんインタビュー 幸せは真下にあった>(注:これは2024年に再録を許可されています)

          <べてるの家という希望>(注:これは2002年か2003年に書かれたものです)

          <べてるの家という希望>  二月の下旬に北海道の浦河というところに行ってきた。  人口1万6千ほどのこの街が、いまや世界中から注目を浴びる場所になってきている。精神障害者が主体となって、年商一億にも達する売り上げを誇るという会社があるからだ。その会社組織といくつかの共同住居(現在約150人ほどの精神科ユーザーたちが地域の中で分散して住んでいる)を総称して、「浦河べてるの家」と呼ばれている。  たった5日間ほどの旅だったが、そこから帰ってきてしばらく経ってみても、なにか懐

          <べてるの家という希望>(注:これは2002年か2003年に書かれたものです)

          <サンタクロースの秘密>

          <サンタクロースの秘密>  (これは2001年のクリスマスに書いたものです)  あなたは何歳のときまでサンタクロースを信じていましたか。そして大人になった今はいかがでしょうか。  私の上の子供は小学校5年生になります。友達から入れ知恵されたのか、去年くらいからサンタの存在に大いなる疑問を感じたらしく、さかんに「本当はパパがサンタなんでしょう」といっていました。去年のクリスマスイブの夜は、「サンタの正体を見破ってやる」といって、寝ないで頑張っていました。しかし、小学生の彼

          <サンタクロースの秘密>

          <いつか恋が愛に変わる日まで>(注:これは2002年か2003年に書かれたものです)

          <いつか恋が愛に変わる日まで>  愛というものがよくわからない。恋については知っているつもりだ。恋の頂点で感じるあの世界の濃度と意味が増大し、しぼりをきつくかけた写真のように、くっきりとした濃淡によってみるものすべてに深度を与える魔法のことは、過去何回か体験している。  それは一種の神秘体験であるといえるだろう。誰でも恋することだけで手に入れることのできる神秘体験である。神秘主義者たちはそれを真の神秘体験のイミテーションに過ぎないというが、少なくとも普通の人間が体験できる

          <いつか恋が愛に変わる日まで>(注:これは2002年か2003年に書かれたものです)

          <樹々の生まれ変わり>

          <樹々の生まれ変わり>  今年(2003年)の4月、アーティストで作家のAKIRAさんと会った。AKIRAさんのお書きになった『アヤワスカ』という本を読み、一度お会いしてみたいと思いコンタクトをとってみたのだ。AKIRAさんは日光に住んでいて、私も週一回アルバイトに栃木の病院に通っていたので、では一度宇都宮で飲みましょう、ということになった。  ちょうどそのころある雑誌にAKIRAさんと田口ランディさんの対談が載っているのをみた。そこに掲載されていたAKIRAさんの写真を

          <樹々の生まれ変わり>

          <ツバを吐く人>(注:これは2002年か2003年ころに書かれたものです)

          <ツバを吐く人>  先日本屋で『ジロジロ見ないで』(扶桑社刊)という本をみつけた。様々な原因で顔に障害のある人たちがどういう生き方を送っているのか、実名入りで顔写真ものせて紹介しているという画期的な本だ。  ご自身も顔の右側に「単純性血管腫」というアザをお持ちになっているジャーナリストの石井政之(まさゆき)さんの呼びかけてできた、顔に障害を持った人たちの自助グループであるNPO法人『ユニーク・フェイス』(このネーミングいいですね)については、以前になにかで知ったことがあり

          <ツバを吐く人>(注:これは2002年か2003年ころに書かれたものです)

          <出会うということ>(注:これは2002年か2003年に書かれたものです)

          <出会うということ>  つい先月のことだ。あいついで、古くからのクライアントに死なれてしまった。一人は衰弱死、もう一人は交通事故で。  どちらも私とそう違わない年代の人で、病気のため不幸な半生を送ったが、ようやく病気も安定し、これから一花咲かせようというところだったのも共通している。 お二人の供養のためにも、少し思い出を語ってみたい。プライバシーや医師としての守秘義務の問題というのがあるが、たぶんすでに天国にいるお二人はきっと許してくれることだろうと思う。 一人はNさ

          <出会うということ>(注:これは2002年か2003年に書かれたものです)

          <日本三大恐いところばなし>(これは2002年か2003年に書かれたものです)

          <日本三大恐いところばなし>  八月といえば怪談の季節である。しかし残念ながら私には霊感のかけらもなく、そういうたぐいの話は話したくても持ち合わせていない。それに代わってというか、私がいままで日本のあちこちを旅してきて、その土地のはじめて見る風景にゾーッと戦慄を覚えたことが何回かある。その話をしてみたい。 そういう場所は私のなかに三つほどあり、その場所との出会いはなぜかいずれも二十歳前に集中する。その場所はいま行ったとしても、その当時感じた戦慄を今再び味わえるかどうかは自

          <日本三大恐いところばなし>(これは2002年か2003年に書かれたものです)