<第三章 黄金時代(少年期総論)>


子供にとって、駄菓子屋は宝島だった。食料から武器から何でも手に入った。
僕が一番行っていた駄菓子屋は、家から歩いても五、六分もかからない、お三の宮商店街にあった「五厘(りん)屋」という店だ。五厘という貨幣価値は戦前のものなので、あるいは相当昔からやっていたのかもしれない。
店はおもちゃ屋ということになっていて、奥まったわずかなスペースで、駄菓子屋をやっていた。
店番はお婆さんだが、おもちゃを買いに来た大人には、愛想よくしていたが、我々子供に対しては、つっけんどんだった。
スペースのためか、あまり駄菓子は置いてなく、くじや安いおもちゃが中心商品だった。どうせお金を使うなら、クジや武器に使いたかった。
クジにも色々あった。紙の束から一枚抜いて、舐めて当たりを出すやつ。新聞紙の袋に入って、引っ張って抜くやつ。
メインイベントは、中央にドンと鎮座する大きな箱。小さな部屋がいっぱいあって、それを一つ選んで指でその箱のフタを上から潰す。中にクジが入っているのだ。でも、たいがいはハズレで、甘納豆かなにかだった。
箱の上部にはこれ見よがしに 、三等、二等、一等の景品が展示してあり、射幸心をいやが上でも煽っていた。
一等はプラスチック製の立派な軍艦だったりした。
だが、ある日五厘屋に行ってみると、クジの一等だった景品が値段をつけられて売り出されているではないか。

今思うに、クジは一等賞が当たらぬように出来ていたのではないか。なぜならすぐ一等賞が出てしまえば、誰もやる気を失くしてしまう。だから最後まで一等賞が出ないように、一等の当たりクジは抜かれていたのではあるまいか。
子供はみなギャンブラーだった。さまざまなクジに挑戦しては悔しい思いをしてきたものだ。
ギャンブルとは、自分には幸運の女神がついていると、素朴に思うものたちが行うものだ。子供はみなそう信じている。だから、クジにハズレたときは心底ガッカリしたものだ。
武器といったら、当時の駄菓子屋では、どこでも肥後守(切れ味の悪いナイフ)を売っていた。みなも学校にも持ってきていて、鉛筆削りなどに使っていた。
でもなんといっても当時最強の武器は2B弾だろう。長さ10センチほどの細長い紙巻き火薬だが、その威力は爆竹のなん十倍もあった。牛乳のビンに2Bを入れて、足で踏んづけていると、ビンが割れた。
カエルの尻に突っ込んで爆発させる連中もいたが、我々はそんなグロテスクなまねはやらなかった。
2Bは、着火材が着いており、石でも木の皮でも、ざらついたもので、頭の着火材を強く擦ると、それで火が着いた。マッチいらずなのだ。
僕らが主に遊んだのは、投げ比べだった。2Bは最初の10秒くらいは白い煙が出ていたが、いよいよ爆発に近づくと、黄色い煙に変わる。それが五秒くらい続くと爆発する。

なるべく長く持って、黄色い煙に変わってから、どれくらい持ってられるか。あまり早く投げてしまうと、相手の足元で爆発してしまう。
ちょうど相手の近くの空中で、爆発させられれば成功だ。タイミングを間違えると、手の中でばくはつして、耳がキーンとなってしまった。
子供は危険なことが好きで、しばしば遊びの中で命を落とすものだ。命懸けだが、自由だった。
話は飛ぶが、皆さんは昆虫を虐殺しなかったか。子供時代のある時期、子供は虫たちの虐殺に熱中する。
アリの巣に、水を入れたり、2Bを突っ込んだり。火であぶったり。
夏になるとおもちゃ屋で、昆虫採集セットが売り出された。中には注射器と、黄色と青の液体の入ったビンがあった。たしか、黄色い液は虫を殺すもの。青い液体は死体を腐らぬように保存するものだった、と思う。これを使ってセミやカブトムシやクワガタを殺していった。
ある時、同級生の家に遊びに行った。隣の三溪園に忍び込んで、バケツ一杯ザリガニを捕まえてきた。
それを友人の家のプール(友人の父親は社長さんだった)に放って、模型の兵隊を襲う怪獣に見立てて、片っ端からちぎっては殺し、ちぎっては殺すことに取りつかれたようになった。たぶん5、60匹以上殺したのではないか。さすがにその後は、自分たちはなにをしたんだろう、と放心した。

放火をしたことがある。当時、新川町二丁目を支配していたのは、ミツエちゃんという、女の子がガキ大将で、女子を主体とするアマゾネス軍団だった。小学校高学年のころは、女の子の方が男子より、知力も体力も上だったりする。
小学校五、六年生ごろ、普段は互いに勝手にそれぞれ遊んでいたが、なにをきっかけだったのか、一丁目対二丁目の全面戦争となった。
僕らは、仲間の小杉くんの店である小杉電器店に籠城した。武器は洗濯機を使った放水である。
それに対し、ミツエちゃんたちは、容赦なく石を投げてきた。女と侮っていたかもしれない。我々はだんだん追い詰められた。
でも、夢中で応戦していると、隣の子が僕の顔を指差して「アッ」と叫んだ。気づかないうちに、石が目尻に当たって血が吹き出していたのだ。
戦線を離脱し、僕はあわてて家に帰った。母は看護師だったので、たいしたことない、と傷の手当てをしてくれた。
その日のうちだったか、翌日だったか、僕は一人復讐のため、ミツエちゃんの家に行き、白昼堂々ミツエちゃんの家の枯れ芝の垣根に、マッチで火をつけた。敵をやっつけるという高揚した気分からだった。
ところが、間抜けなことにミツエちゃんのお父さんが、家の前で洗車をしており、あっという間に消火されてしまった。
悪いことをした、という意識だけはあり、夕暮れが近づいても、家には帰れなかった。ぼーっと歩いていると、向こうから母親がこれまでもなく怖い顔をしてやってくるのが見えた。

閑話休題。下町言葉というのがあって、東京の下町とは違い、べらんめい言葉ではなかったが、「し」と「ひ」が完全にひっくり返っていた。たとえば「シンゴウムシ」は「ヒンゴウムヒ」になった。
僕の名前も「ヒロシ」だが、「シロ」ちゃんと呼ばれていた。
つきあい方でいうと、子供なりに礼儀はあった。僕は仲間のことは「くん」か「ちゃん」づけで読んで呼び捨てにすることはなかった。
店屋に入って店の人を呼ぶときには、直立不動で両手をピンと伸ばし、両腿につけ、独特の節回しで「ちょうだいな」あるいは「くださいな」と大声で呼んだ。
あと、友達を遊びに誘うときも、同じかしこまった姿勢で、玄関や窓の下で、「○○君遊びましょう」とこれも節をつけて呼んだ。今は忙しいときは「あ・と・で」と断りの返事するのが礼儀だった。
僕の家の裏に、桜井くんという小学校三、四年の子供がいた。この子はあまり人と交わらなかったが、恐竜のことにすごく詳しいのだ。
我々はひそかに「博士」と呼んでいた。今思うと「アスペルガー症候群(高機能自閉症)」の子だったと思う。こういう「博士くん」が、どの遊び集団にもいて、皆から尊敬されていたものだ。

小学校三、四年のころだ。母親に連れられて、山形の親戚の家に行った。
バスの時間があまっていたので、駅前の貸本屋に入った。何気なく手に取ったのは、楳図かずおの「ひび割れ人間」。フランケンシュタインの怪物を思い出させる、全身ひび割れた怪物が、突然、平和な家庭に侵入する。
怪物は、家族の見ている前で、その家の主人を捕まえ、家族の目の前で、主人の首を絞め殺す。
漫画で人が殺されるシーンを見たのははじめてだった。
ショックだった。人間て死ぬんだとはじめて知った。僕もいつか死ぬのか?そんな疑問をつきつけられて、呆然と日差しのなかを辿った。
夕方になり、けっこう大きな河のほとりを母親に案内されて歩いた。
やがて夜の帳が降り、月のない、満点の星空が頭上一杯に広がった。こんな圧倒的な星空を見たのは生まれてはじめてだった。
天の川も見えていた。まるで宇宙の中心に浮かんでいるようだった。
次に気がついたのは、親戚の家の布団の中だった。
どうやら星空に見とれ、2メーターくらいの高さから河原に転落したらしい。
まもなく意識もしっかりとし、体にも怪我は負ってなかった。
しかし、一歩間違えれば、死んでいたかもしれない。
この日は、「死」にもっとも接近した記念日となった。

プラモデル屋は、当時の子供にとって、宝箱のような所だった。
伊勢佐木町七丁目にプラモデル屋があり、週一、二回はかけつけていた。細長く狭い店だったが、相当な数のプラモが揃っていた。
種類も多種多様で、飛行機、戦艦、戦車などのミニタリーものから、日本各地の城のプラモデルードイツのノイシュバンシュタイン城まであった。
平安時代の鎧兜、いちいち錣(しころ)を縫っていく。パーツの多さでは、日光の陽明門が横綱クラスだったろう。さらに一メーターはゆうに越える戦艦大和もあり、垂涎の的だった。
敗戦後まだ間もないというのに、戦争で相当に痛い目にあったはずなのに、ミニタリー物があんなに人気だったのはなぜだろう。
でも、反戦思想のカケラもなく、ただカッコいいと思っていた。戦闘機といえば即零戦だったし、戦艦といえば大和だった。戦艦大和は人類の創りだした世界一美しい武器だろう。
とにかく昔のプラモデル屋は戦争物が充満していた。リモコンの戦車は面白かった。けっこうな急坂を登った。
あと、人気があったのは鉄人28号やゴジラなどの怪獣の歩く模型だ。昔は動く模型が多かった。別売りのモーターや電池を使用した。僕は電気系統の配線をするのが好きだった。
一番作ったプラモデルはなんだっただろう。日本の城が好きだったので、とりわけ姫路城はよく作った。あとはなんと言っても戦艦大和だろう。大小様々なものを作った。
船体に爆竹を仕掛け池に浮かべ、その導火線を狙って連発花火を発射して、爆発、沈没させたりした。

めんどくさいのはシールを貼ることだった。シールを水に浸して、シールが浮いてくるのをスライドさせて貼った。たいがいはズレたり、シール同士がくっついたり、なかなかやっかいなものだった。
模型屋には、手作りの工作を作る材料もいろいろ売っていた。バルサ材という軽くて柔らかくて加工しやすい木材を買っていた。それを使って、車や船を作った。
水中モーターといって、電池を内蔵した紡錘形のお尻にスクリューのついたものがあった。吸盤が着いており、それをプラモデルの船の底に引っ付けると船が自走することができた。
あとは、ジェットロケットというのがあり、導火線に火をつけると、ロケットが何十秒間か噴射して、車や船をすごいスピードで走らせた。
そんな手製の車や船を作っていた。だから模型屋は、既製のプラモデルを売るだけでなく、自発的に作りたい物の材料を手に入れる場所でもあった。
鉱石ラジオや理科の実験道具も売っていた。当時、模型屋はキラキラと燦然(さんぜん)と輝いていた。そこは、子供のための何でもそろう魔法のデパートだった。

小学生のころ、毎年夏休みになると、岩手の母の兄のところに泊まりにいった。母の兄は、大沢温泉というところで、船員保健寮の管理人をしており、そこに泊まりに行ったのだ。
寮といっても、旅館と一緒で何室かの和室があった。そこの庭に面した一番いい部屋を一週間ほど借りきったと思う。
けっこう広い温泉もあった。
岩手へいく時は、最初のころは上野から蒸気機関車に乗った。冷凍ミカンを買ってもらった。皮がカチカチで食べるのに苦労した。途中トンネルにさしかかると、いちいち窓を閉めた。空けていると煤が入ってきて顔が真っ黒になる。岩手までどのくらいかかったのかわからないが、苦痛ではなかった。
大沢温泉は、岩手の花巻温泉郷の一角にある。汽車を花巻で降りて、そこからは花巻電鉄の鉛温泉行きに乗った。
花巻電鉄は「マッチ箱電車」と呼ばれるくらい細長くて、風が吹いたら倒れそうに見えた。車内も対面する椅子と椅子の間隔が狭く、向かい合った人と膝と膝がぶつかりそうだった。
大沢温泉には、湯治場もある「山水閣」という大きな旅館があり、そこの露天風呂からは、豊沢川という巾のある急流も眺められた。宮沢賢治も生徒を連れてよく訪れたという。
毎日、午前中は母親の監視のもと、夏休みの宿題をやり、午後からは自由時間だった。
兄の家には、何人か兄弟がいたが、僕の同い年の男の子と一つ年下の女の子とよく遊んでいた。

ある時、弱って倒れている小鳥をみつけ、温めれば回復するのではないかと三人で協議して、風呂の湯をタライに汲んで、そこに小鳥をそっと入れた。しかし、小鳥は間もなく息を引き取ってしまった。
大沢温泉の停留所までは三十分以上かかり、よく一人で歩いていった。途中の農道に馬頭観音の石碑があった。僕は、そこには馬の首が埋まっていると思い込み、その前を通るのが怖かった。
停留所には、「山水閣」の入り口と、形ばかりの駅。道の両側に土産物があった。土産物屋の脇の道の先は一面の田圃だった。
土産物屋で、バケツに水を流しっぱなしで売っているサイダーがいかにもうまそうだった。
東北の短い夏休みも終わり、いとこたちは通学がはじまった。
母の兄の宿は大沢温泉のはずれにあり、吊り橋の向こうは、熊しか住んでないような人外魔境だった。
しかし、その山奥から「瀬野くん」といとこを呼びにくる男子生徒がいたのには驚いた。
その子は体ががっしりして、「なんば歩き」でやってきた。「なんば歩き」とは、右手と右足を同時に出す歩き方だ。江戸時代までは、日本人は誰もがなんば歩きをしていたといわれる。
たが、今時まだなんば歩きをする子がいるなんて、僕は思わず見惚れた。
夜になると、外灯にさまざまな虫たちがやってきた。カブトムシやクワガタはもちろんのこと、驚いたのは両の手のひらを合わせたくらいのサイズの蛾がいたことだ。後で調べると「オオミズアオ」という名前だった。

毎年初夏になると、葉山にある「緑の学校」に一泊の合宿旅行があった。小学校五年と六年のときだ。
当時の葉山はすごい田舎で、海と山以外なにもないところだった。
そこに関東学院葉山小学校があったのだ。よく生徒が集まったと思う。でも、昭和40年僕が小学校三年生のとき、廃校になってしまった。葉山の生徒たちは、それぞれ六浦小学校と僕のいた三春台小学校とに転入してきた。何人くらい来たんだろう。三人とか四人くらいではないか。
もともと一クラス36人で、二クラスしかなかった。
そんな少人数のところに何人かでも増えるのは事件だった。「佐伯」さんという女の子が転校してきて、色黒だがすごい美人だった。葉山は南国だから色黒なのかと愚かにも思ったりした。
話を「緑の学校」のことに戻そう。
本館は、元財閥の別荘だったとのことで、洋風の三階建ての瀟洒な建物だった。二階には半円形のベランダがあり、ちょっとしたホテルという感じだった。
クラス合わせて七十人ほどの人数がいたわけで、たぶん元教室だったところに布団を敷いて泊まったのだろう。はじめてのお泊まり体験でみな興奮を隠せなかった。
本館の三階にある元校長室には、幽霊が出るとまことしやかにささやかれていた。恐る恐る三階の階段の下まで行ってみたものだ。
当時テレビで「悪魔くん」という水木しげる原作のドラマが流行っており、寒い時用にみなジャンパーを持ってきていたが、それを第一ボタンだけ留めてマントのように羽織り、右手の人差し指を立てて、「エロイムエッサイム エロイムエッサイム我は求め訴えたり」と唱え出した。

そうして、あちこちで悪魔くんごっこがはじまった。
「緑の学校」の建物や周囲を囲む森などが独特の雰囲気をかもし出していた。まるで建物全体が魔法にかかっているかのようだった。みんな軽いトランス状態に入っていたのではあるまいか。
夕飯の知らせが届くまで、悪魔くんたちの徘徊は続いた。
夕飯は食堂で取った。関東学院はキリスト教、プロテスタントの学校だったので、食事前には「天にまします我らの父よ」ではじまる長いお祈りを唱えた。
そうして食堂のイスに座りながら、手を組んでいると。食堂の床油の匂いと、目の前の熱いほうじ茶の入ったヤカンからの匂いと、厨房からの思わず心が和んでしまうような独特の匂いが混じりあって、「緑の学校」の食堂ならではの匂いとなった。翌年再び「緑の学校」に行ったときも、お祈りのときに「ああ、この匂いだ」とやはりそう思ったものだ。
その夜はなかなか寝つかれなかったかもしれない。
翌日は、海へ行き磯遊びをした。リュッケというあだ名の、野人ぽい奴が、素手で蛸を捕まえた。
食堂のおばちゃんたちは、それを茹でてみなに出してくれた。
当時、葉山に行くのは、今ならまるで遠く軽井沢まで行くような感じではなかっただろうか。

毎年六月、七月、八月には、伊勢佐木町七丁目に「一、六縁日」が立った。七丁目の通りの両側に、屋台や路上販売の店が隙間なく並んだ。
「一、六縁日」とは、毎月一と六のつく日、つまり一日、六日、十一日、十六日、二十一日、二十六日とほぼ5日おきに縁日が行われるのだ。
ちなみに弘明寺商店街では、「三、八縁日」といって、三と八のつく日に縁日が立った。
「一、六縁日」は、家から歩いて十分くらいの所なので、小学校高学年になると小遣いを握りしめ、一人で行っていた。
まず七丁目の右側の角に、「愛知屋」という蟹とふぐを扱っている店があった。そこの残飯を食べた路上生活者が、ふぐの毒に当たり何人か死んで話題となったものだ。
その愛知屋の前にはいつも、傷痍軍人の人たちが三、四人ほど並んでいた。傷痍軍人とは、戦争で名誉の負傷をした人たちのことだ。
白い病衣をまとい、軍帽をかぶり、片足がなく杖をついてる人、片腕のない人、眼帯をしている人。彼らがハーモニカやアコーディオンを鳴らして軍歌などを悲しげに演奏していた。
正直、異様だし怖かった。母親から傷痍軍人の持っている募金箱に十円を入れるようにいわれたが、怖くて近づくことが出来なかった。
その傷痍軍人さんたちが、まるで縁日のゲートの番人のように入り口を固めているのだった。
左手には、植木屋が何軒か並んでいた。青々しい匂いと植木屋さんの威勢の良い声が響いていた。夏だから、朝顔でも売っていたのだろうか。

傷痍軍人の前を恐る恐る通りすぎると、いよいよ夜店のはじまりだ。
わたアメ、焼きとうもろこし(あの焦げた醤油の香ばしい匂いは、辺り一帯を確かに、圧倒的にお祭りなんだと、支配していた)、りんご飴などの定番が並んでいるところに、何かポッカリと穴が空いたような空間があって、陰気なおじさんが、昔の洗濯機の洗濯物を挟んでしぼる機械のようなものを使って、スルメを平らに延ばしたものを売っていた。でも、誰も買う人を見たことはないのだった。
その隣くらいに、あったのは一六縁日自慢の「ゲンゴロウさん」だった。ゲンゴロウとは、体長五センチくらいの水生昆虫で当時は川や沼でいくらでも捕れた。
直径5、60センチくらいの白い水槽があって、周囲の壁は小部屋に仕切られ、5とか10とか15とかの数字が書いてある。水槽の真ん中には飛び込み台のようなものがあり、ゲンゴロウを網ですくって、そこから落とすのだ。
するとゲンゴロウはその習性なのか、水槽の端へ泳いでいき、数字の書かれたどこかの小部屋に入る。その数字の数だけ、小さな甘い揚げ菓子(おそらくサッカリンをタップリまぶした)がもらえるのだ。たぶん、それだけを売ってても魅力はなかっただろう。
ゲンゴロウを使ったギャンブルというスリルが、何よりの味つけだったのだ。
お面屋。セルロイドのお面は、独特の甘い刺激臭があり、僕はその匂いをかぐのが好きだった。
ヨーヨー釣り。金魚すくい。七味唐辛子売りというのもあった。目の前で口上を言いながら、七種の具を混ぜて作る。辛さの段階に合わせた注文ができた。

アンズを水飴で包んだアンズ飴。「チンチン焼き」と名づけられたベビーカステラ。「チンチン」とは市電の鳴らす警告音のことらしい。ハッカパイプ屋。吸うとメンソールの味がする。色んなパイプがあったが、僕のお気に入りは、木で作られた本物のパイプを真似たものだった。
七丁目の真ん中の十字路の所には「千本引き屋」があった。千本引きとは、くじの一種で、たくさんの景品とつながったヒモの中から、一本を選んで引くものだ。
景品には、子供なら誰もが欲しくなるような豪華なオモチャやプラモデルがあった。だが、何回引いても、ゆらゆらと上がってくるのは、豪華景品の影に隠れていた小袋のクラッカーとかで、毎回ガッカリさせられたものだ。
今思うと、ヒモは当たりの景品にはつながっていなかったのではないか、と思う。どのヒモを引いても上がってくるのはハズレだけだったのではあるまいか。詐欺といってしまえば詐欺だ。でもそれが的屋商売というものだろう。
その反対側辺りには、「付録屋(というか名前は不明)」があった。当時の月間少年誌には、いくつもの付録が付き、その数と質を争っていた。例えば、ゴム動力のレコードプレーヤーなんてものもあった。
その様々ある付録だけを売っているのだ。これはどれもがキラキラ輝いてみえた。その中でも買って嬉しかったのは、変装セットだ。メガネやら付け髭があった。まだ幼かった僕はそれをつけて本当に変装出来たと信じこんだものだった。

水に浮かべる二種類の船があった。「ポンポン船」と「樟脳(しょうのう)舟」だ。「ポンポン船」はブリキで出来た船で蒸気機関で動いた。屋根に水を入れ、下から小さなローソクであぶった。すると温められた水蒸気が吹き出してきて、船は進んだ。これは良くできていた。
「樟脳舟」は当時虫除けに使われていた樟脳を用いるもので、小さなセルロイド辺が船の船尾にあり、樟脳の欠片をはさめるようになっており、樟脳をはさんで水に浮かべるとスイスイと軽快に走り出した。この原理は水面張力によるものだという。
七丁目の外れに串カツの屋台があり、常に串カツを肴に酒を飲む大人たちでゴッタがえしていた。
その大人たちの足の間から、首を出して素早く串カツを注文した。酒を飲まない子供は店にとって上客ではない。ぐずぐずしていると注文もさせてもらえない。気合いを入れて注文したものだ。クジラ、アサリ、ポテトの串カツが好きだった。ソースは二種類あり、「甘いの?辛いの?」と聞かれた。トウガラシの浮かんだ辛いソースが好きだった。大人になったら、絶対ここで酒を飲むからな、と誓った。
縁日の締めはなんといっても、花火だろう。花火屋は模型屋の前につるんで三件ほど並んでいた。変わり種は「金魚花火」といって火をつけて水中で燃やすもの。あとは「お化け花火」といって、お化けの形の紙の切り抜きと、ローソク立てが入っているだけ。要するに影絵だ。
低学年のときは、手持ち花火をすることが多かったが、高学年になると連発花火などをした。いつも最後は線香花火をやった。線香花火の最後の火の玉が落ちると、祭りは終わったというさみしい気分になったものだった。

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