<美しい魚>(注:これは2003年に書かれたものです)

<美しい魚>

 そこからは、はるばると広がる大地が見えていた。僕たちはまだ24歳だった。広大な大地の上を白く輝く道が何本もうねりながら、遙かに地平線へと消えていく。

 しかし、その未来へと向かうはずの道は、裏に回ると、ハイウェイ沿いにある広告看板のように、骨組みだけがただ荒々しくむき出しになっているのかもしれなかった。

 僕たちは共に世の動きから取り残されてしまっていた。そして、二人ともまるで春の日の日向のようなエアポケットの中でしばしのまどろみをむさぼっていた。

 再び会うようになってから、僕たちはなぜか根拠のない楽観に子供のように包まれながらも、未来への怯えに、ふと目を伏せ黙り込んでしまう。そんな時をいつしか持つようになっていた。

 高校時代にはそんなに親しいともいえなかった彼と、どうしてまたつき合うようになったのだろう。

 そのころ僕は、医学部入学を目指して、自分を追い込みながら日々を送っていた。わずかな食事と睡眠の時間をのぞいては、ただひたすら机に向かっていた。無謀だとは自分でもわかっていた。

 高校を卒業して6年が過ぎようとしていた。その6年間、僕は大学にも行かず、わずかにしたアルバイトを除いてはきちんとした仕事にも就いたことはなかった。

 高校を出て最初の受験にすべて失敗してからは、もう受験を考えることはやめた。他人に選抜されるという、その屈辱に耐えられなかった。なにより高校を出たとき、僕はいったい何をしたいのか、自分でもさっぱりわからなかったのだ。

 だが、本音をいえば、自分がなにものかになることが、つまり無限の可能性が限定されてしまうことがたまらなく怖かったのだ。

 なにものにも縛られることなく、友人たちと読書会をしたり、同人誌を出したり、8ミリカメラで映画を撮ったりの気ままな日々を送っていた。僕を囲んでいる多くの友人たち、それが自分の大学だと思っていた。

  しかし現実にもどれば、高校を卒業してからの6年間は、履歴書ではただの空白でしかなかった。そんな僕を入れてくれる大学が果たしてあるのだろうか。そう考えると、こうして勉強していることが、ふとただの徒労に思えてくる。その不安はいつの瞬間も立ち去ってはくれなかった。

 一方、彼の方は、僕たち落ちこぼれを後目にして、有名大学に推薦で入り、順調に大学生活を送っていた。短期間だが彼の紹介で、楽で報酬の良いアルバイトを一緒にやったことがあった。そのときの彼の口振りからすると、どうやら彼女もできたらしい。

 やがて大学を卒業した彼は、地元の商社系の企業に勤めた。しかしなぜかわずかな期間でそこを辞めてしまった。社会の裏側で行われている不正に耐えられないといって辞めたらしい、ということを風の便りで聞いていた。

 もったいないことをするなとは思ったが、彼とはアルバイト以降ほぼ連絡も途絶えていたので、僕の方からあえて彼に問いただすこともしなかった。

 そんな彼が僕の元にふらりと訪れたのは、あれは夏のただ中のことだっただろうか。周囲の家々が寝静まった深夜に、僕の家の外階段を登ってくる足音がする。

 私は夜型人間だったので、勉強はもっぱら夜中に集中してやっていた。二階にある僕の部屋には、玄関を入らずとも外から直接やって来られる鉄の階段がついていた。

 そうして深夜の1時頃、彼は一人でやってきた。正直にいって、その時間帯が一番勉強に集中できる時間だったので、いささか迷惑でもあった。

 何をしにきたのか、とたぶん僕はややきつい口調で問いただしたことだと思う。しかし、そんな人の迷惑には頓着することなく、無邪気ともいえる口調で、彼は僕に見せたいものがあるといった。

 そうして僕はなかば強引に、外に停めてある彼の車まで連れていかれた。僕に見せたいものとは一体なんだったのか。彼は車の後ろに回ってトランクを開けた。そこにはルアーフィッシングの道具が山のように積まれていた。

 慎重な手つきで開けたスライド式のボックスに、まるで宝石のようなルアーたちが大切そうに並べられて輝いていた。思わず僕も嘆声を上げたと思う。それほどなにかそれはただの道具を越えて、不思議に僕を魅了した。たんなる物質にすぎぬものに、生き生きとした生命を吹き込む魔法の力を彼は持っているのかもしれなかった。

 僕は彼に誘われるままに、夜の海に連れ出された。そうしてしばし、橋の上から街路灯の明かりを反射する水面に向かってルアーを投げ入れる彼の姿を、タバコを吸いながらぼんやり眺めていた。

 胸一杯に夏の夜の潮風をかいだ後、すっかり満足した僕たちは再び家へと戻った。車を降りるとき、彼は車のドアにキーをかけようとはしなかった。

 理由をたずねると、誰も盗もうとする人なんかいない、と彼は冷静な口調で答えた。僕はそんな彼の無防備さに一抹の危惧を感じて、なにか言おうと口を開きかけた、でもなぜか彼を問いつめるような言葉は出てこなかった。

 後になって思うのだが、彼は単なるお人好しだったわけではないのだろう。そういう行為に、きっと彼はなにものかを賭けていたのだ。

 その日から、彼はしばしば僕の元を訪れるようになった。なにもしていない同士ということで、僕にひそかな連帯感を感じたのかもしれない。あるいはそのころの彼には、僕の所にくるほかには、どこにも居場所がなかったのかもしれない。

 決まって深夜の12時をすぎたころに、外階段を彼が登ってくる足音がする。僕は集中していた参考書から顔を上げて、小さなため息とともに彼を向かい入れる。

 そうして朝の日が射すころまで、僕たちは様々なことを語り合った。

 僕の実家は釣具店を経営していた。一時は狭い店がまるでパーティ会場のようにお客さんで混雑する時代もあったのだが、そのころはすでにすっかり寂れてしまい、妻と一人息子(つまり僕のことだ)に去られた父親が一人で細々とやっていた。

 その店を僕たち二人で引き継いで、そのころはやり始めていたルアーやフライフィッシング専門の店に一新しようなどと様々な夢を語った。ときには新しい店の設計図まで、ああでもない、こうでもないと何時間も描いたりもした。

 しかし、いつも朝の光が射すころになると、どちらともなくあくびが出て、するとそうした夢語りも急速にしぼんでいってしまうのだった。

 やがて夏が終わり、虫の声のすだく秋になっても、彼は僕の元を訪れてきた。彼は自分からはなにも話そうとしなかったが、密かに新しい就職へ向けて動き出している気配が感じられた。

 いつか彼の車で深夜のドライブをしたことがある。印象に残ったことだが、高速の料金所で料金を支払うときに、彼は料金所の人に「ありがとう。ご苦労様」と丁寧に声をかけていた。そういうなんとも世間離れした高貴なともいうべき気配が彼にはあった。

 あれはなにを話していたときだろう。あるとき彼が唐突に、自分は精神科の病院に入院していたんだと話し始めたことがある。

 そこで彼は様々な心理テストを受けさせられたそうだ。そのうちあまりにもばかばかしくなって、彼は屹然(きつぜん)と

「もうこんなことはたくさんだ。もう僕は帰る」

そういってそのまま退院してきたのだという。

  またこれはいつのころのことかはっきりとはわからないが、彼にまつわる心に残ったエピソードがある。

 あるとき、家族4人で夕飯のテーブルを囲んでいたときのことだという。

 突然、飼い犬がだれも通ってはいない夜の闇に向かって狂ったように吠え始めた。

 そのときだった、彼は立ち上がって

「あっ、今僕の中からなにかが抜け出ていったよ」

と小さく叫んだという。

 彼は精神を病んでいたのだろうか。だが、僕や仲間たちと会っているときの彼はというと、いつも上機嫌でジョークを飛ばしている姿しか思い浮かばない。たとえ、心の底にどんな苦悩があったとしても、それを僕たちに見せることはなかった。

 季節はいつしか冬になって、相変わらず彼の一方的なペースで深夜の訪問は続いていたのだが、僕に遠慮することもあったのだろう、前よりはその回数は少なくなっていた。僕も受験の追い込みに必死だったので、実をいえばそれはありがたいことだった。

 そうしたある日、いつものように深夜に訪れた彼は、ひそかにある会社に就職することを考えているんだと、はじめてその胸の内をうち明けた。

 その会社は、Hという社長がユニークな人で、様々なアイディアを出して、多角的な経営をしているらしい。彼はその人のことを愛読する釣り関係の雑誌で知ったのだという。H社長も熱心な釣りファンなのだそうだ。

 そのH社長のエッセイが毎回その雑誌に連載されているが、読み込むうちに、彼はその社長の語っている、その企業がこれから展開しようとしているプロジェクトに深い共感を覚えるようになったのだという。それは世界中の川や湖などの自然環境を保護するという壮大なものだった。

 驚いたことに、彼はその会社に一人で出向き、H社長に直接面接を申し込んだという。そして彼はH社長とすっかり意気投合し、社長が自分のライフワークとして取り組もうとしている「フレンズ・オブ・リバー」と名づけられたそのプロジェクトに、彼もぜひ参加して欲しいと懇願までされたというのだ。

 この迷惑な深夜の訪問にいささか閉口していた僕も、その夜はさすがに彼の興奮が伝染して、H社長がどんなに素敵な人なのか、という彼の語りを朝まで聞かされたのだったが、そのころには僕もその社長にすっかり会いたくなってしまった。

 あれはすでに師走をを迎えた季節のことだっただろう。友人たちに誘われて、僕も久しぶりに街へ出た。彼もそこにやってきていたのだが、驚いたことに長髪をばっさりと切って、いつの間にかつるつるの坊主頭になっていた。

 その髪どうしたんだと聞いても、彼は笑って僕らの質問に答えることなく、屈託のない笑いを浮かべて、おどけた仕草でマイケル・ジャクソンよろしく後ろずさりしながらムーンウォークで歩いてみせた。

 それが生きている彼をみた最後となった。  

 彼が死を自ら選んだ前日に、実は僕は彼と会っていたかもしれなかったのだった。僕はその日東京で用事があり、帰宅は終電ぎりぎりになりそうだった。もし終電に間に合わなかったら、彼の家に泊まらせてもらえないかと、前日そう彼に電話していたのだ。

 結局、終電の時間ぎりぎりに電車に飛び乗ることができて、僕は家に帰った。

 もし、と考えることは生きている者の不遜な幻想かもしれない。でももし、その日僕が終電に乗り遅れて彼の家を訪ねていたら、なにかが変わっていたのだろうか。

 その日、1981年の2月3日の深夜、彼は、彼らしい方法で彼の短い生に別れを告げた。その方法はここではくわしく書かないが、それは誰に迷惑もかけることもなく、遺体になんの損傷も残さない、というじつに簡単だが完璧な方法だった。

 次の日は、あれほど彼が待ちに待ったはずのH社長の会社への初出勤の日だった。枕元には、翌日着ていくはずのスーツ一式が畳んで揃えてあったという。

 彼があんなにも望んでいたはずの「フレンズ・オブ・リバー」プロジェクトの入り口まで招き入れられながら、その直前でなぜ、というのは今も僕のなかで、けっして解かれることのない問として残り続けている。

 お通夜には、僕が連絡し駆けつけてくれた高校時代の友人たちの姿もみえた。葬儀というものに生まれてはじめて参加した僕は、着ていく礼服もなく、一人だけ浮いたような普段着のコート姿の自分が恥ずかしく、隅の方で体を小さくしていた。

 翌日の告別式も淡々と進んだ。いよいよ火葬場の焼却炉の中に彼の肉体が消えていくというときだった。僕の視野の隅にお棺を前にして立つ彼の父親の姿がちらっと映った。父親は直立不動の姿勢のまま、まさしく滂沱としか表現するしかない、流れ落ちる大粒の熱い涙を拭いもせず声を出さず号泣していた。

 思わず胸のあたりを重い棒で強く叩かれたようなショックを覚えた。胸が詰まる、という感覚がどういうものであるのか、僕はそのときはじめて知った。

 僕は前年にもS医大を受けていた。点数的には合格圏内ではあったが、落とされた。やはり僕の経歴が問題となったのかとひそかに落胆した。

 しかし今回のの共通一次(今のセンター試験)ではかなりの高得点を取っていた。普通ならまず落とされることはないはずだった。

 しかし合格発表の当日、僕の手元に来た通知はまたもや不合格を伝えるものだった。

 僕は人と接する仕事をしたかった。バーテンダー、タクシーの運転者、マッサージ師、なんでもよかった。でも心の底の底では精神科医というものになりたかった。それは人を救うためなんかでは決してない。僕自身とはなにか。ただそれを知りたかったからだ。

 しかしいつまでも夢を追っているわけにもいかない。医学部受験も2回でだめだったらきっぱりとあきらめるつもりだった。そして精神科の看護士資格を取ろうと思っていた。

 それは彼が、僕の元にやってくるようになったあの夏の盛りのころのエピソードだったという。

 ある日彼はめずらしく、大きな生きた魚(さかな)を家に持って帰ってきた。彼の主義として、いつもなら釣った魚をその場で、もう一度川にリリースしていたはずだ。

 何日かたって、突然彼は母親にいった。

「この魚、もとの川に帰してやってくる」

母親が

「どうして」

とたずねると、彼はこう答えたそうだ。

「この魚の目が夜になると帰してくれ、帰してくれというんだ」

 彼がH社長の会社に入社するために、副社長あてに書いた英文の履歴書にはこういう一文があったという。

・・・His office looks like a beatiful river for a trout. I also want to live all of my life vividly. So won`t you please let me in this river?!

I believe only you can revive my heart &body that once has been dead.

「・・・彼のオフィスは鱒にとっての美しい川のようだ。私もまた、私の人生のすべてを生き生きと生きてみたい。だからどうか私をこの川に入れて泳がせてください。

 私の一度死んでしまった心と体を生き返らせてくれるのは、あなたがただけだと信じます」

 彼の葬儀からはすでに何日か経っていた。その間の僕はまるで魂の抜けた人間のようになっていたと思う。

 4月からの看護士試験を目指して、今から動き出さなければならないとはわかっていても、なにをする気力もわいてはこなかった。

 そんなある日、私あてに一本の電話がかかってきた。S医大からだった。なにやら聞き取りにくい電話の向こうの事務員らしい女性の声は、こんなことをいってるようだった。合格辞退者が出たので、補欠であったあなたが入学できることになりましたが、それをお受けになりますか、と。

 とっさになんのことか理解できず、でもようやく相手のいっていることが伝わってきて、僕はあえぎながら、電話口に向かってただ「はい」としか答えることができなかった。

 そのとき真っ先に思ったことは、これは彼の仕業なのではないか、ということだった。彼は自分で自分の道を閉ざした代わりに、他人である僕の道を開いてくれたのではないかと。

 その思いになんの根拠もないことはわかっている。でもそのときは自然にそう感じてしまったのだ。

 そうして私は精神科医となった。そしてもう早くも20年の年月が経つ。でも、この間彼のことはけっして忘れることはなかった。でも今でも彼が私に投げかけた問いを解くことはできないでいる。

 もしかすると、その答えのない問いかけが私を不登校やひきこもりの問題に関心を持つように仕向けたのではないかと思う。

 かつて、僕と彼の前にはるかに広がっていた大地の上に幾本にも枝分かれしていた道は、今はただ一本だけの道にとなってしまったのかもしれない。だが、その道を私は今彼と共に一歩づつ歩んでいるのだと感じている。

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