連載「プルーストを読む生活」を読む生活⑥
2021.3.4
先日、旦那に刺身をパックのまま出す妻と、お刺身はパックからちゃんとお皿に移してほしい旦那についてのネットニュースをみた。
そのことで真っ先に思い出した小説と映画がある。
結婚とは文化であります。
先日サッカーを見ていたら、アフリカの選手がゴールを決めた時変な踊りをしました。
あの踊りは我々にはよくわからいが彼らには重要な意味がある。
文化とはそういう風に国や民族に生じる固有のものですが、もっと言えば都道府県や町、地域ごとに文化は生じます。
そうなると一番小さな文化の単位は家族、ひいては夫婦なのではないでしょうか。
『長嶋有漫画化計画』所収「パラレル」より
上記のセリフは、登場人物の津田が、自らが社長を務める会社の社員の結婚パーティーで行ったスピーチの一節だ。
夫となる人間も、妻となる人間も、結婚前はそれぞれの家族の間に育ち、その家族固有の文化を吸収する。
家族の数だけ文化がある。
そして言うまでもないことだが、文化に優劣はない。
ある文化を持つ集団が、生活を営む上において何を大切にするかということが、文化の一側面であると思う。
1995年公開のスペイン映画『死んでしまったら私のことなんか誰も話さない』で、主人公で売春婦のグロリアが、水がのみたいという瀕死の警察官に水を飲ませようとする。
グロリアが水を注いだコップに、ソーサーが添えられているのを見た警察官が、絶え絶えの息でグロリアに「君はいい人だ」というようなことを言い残して息絶える場面が今でも印象に残っている。
私に関して言えば、お客さんに飲み物を出すときはペットボトルのまま出したくはないなと思う。まあ、これも時と場合によるが。
自分だって買ってきたおかずを家族に出すときは、皿に移し替えるときもあるし、そのまま出す時だってある。
いつもいつも皿に移し替えるわけではないし、いつもいつもトレーのままだすわけではない。
話を例の夫婦に戻す。
自分の文化を他人に理解してもらおうと思うのなら、他人の文化を理解する努力も必要なのではなかろうか。
別に夫婦に限ったことではない。
多くの人間の中からその人を選び、ほかの誰よりも多くの時間を共に過ごすという特別な関係を結んだ者同士に必要なのは、己が文化の優位性をもって相手を従わせることではあるまい。
ちなみに我が家では、食器かごにある乾いた食器の上に、洗ったばかりの食器をのせる派(オット)と、のせてはいけない派(ツマ)の戦いに、とりあえずツマが見ている前ではのせないという、オットの静かな抵抗がつづいている。
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