殺虫剤に殴られた夜
数年前、私は山と山の間に鎮座するコンクリート城の中にいた。
転職という名目で手にした自由時間で、自動車免許を取得することにしたのだ。
失業直後ということもあり安価で効率的な方法を模索した結果、インターネットという宇宙の中から釣り上げたいくつかのプランから「合宿免許」という手段に落ち着いた。
場所は山形県を選んだ。行ったことのない場所に行ってみたかったのと、価格が良心的である点が魅力的だった。
ご飯も空気もさぞ美味しかろう。都会にはない満天の星空を堪能できるに違いない。出発の前から希望と浪漫に満ち溢れて、行きの新幹線では一睡もできないほどにワクワクしていた。
合宿初日。
駅に着くと、既に送迎車が待っていてそのまま宿舎へと向かうことになった。そこは山に囲まれた温泉街で、教習所からは車で15分程かかる。
合宿プランを選ぶ際に「温泉街にある宿舎」という文字を見て迷わずそこに決めたのだ。
想像通り、宿舎は絵に描いたような自然の中にあった。
目の前に広がる山はかつて見たことがない程に距離が近く、傍には川が流れていた。歴史を感じさせるお土産屋さんも並んでいる。
割り当てられた部屋は最上階(といっても3階だけれど)で、目の前の山を堪能することが出来た。
完全に浮かれていた私は、自然という広大な生命の源での生活を知る由もなかった。
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合宿に入って5日目。
同じ宿舎の人達とも仲良くなり充実した毎日を過ごしていた私は、部屋に戻った当初その違和感に気付くことができなかった。
ようやく異変に気付いたのは、服を着替えてからその日の勉強を終え、とりあえず歯を磨こうと洗面所へ移動した矢先のこと。
大きな鏡の右下に身を寄せる、「何か」がそこにいた。
左右にギョロギョロと動く目と連動するように、背中の羽が不気味な動きで私を威嚇している。
それから約1分間、私達は熱く見つめ合ったまま互いに動けなかった。
数時間にも感じられた長い一瞬を経て、相手が動かないことを確認した私は、敵に背中を見せないように配慮しながらゆっくりとドアに近付いた。ドアノブを掴み、敵の位置を目視する。そして一目散に下の階にある管理人室へと走った。
事情を説明して駆除用のスプレーを借りた後、空気を振り切るように階段を駆け上がり、部屋の前につくと乱れた息を整えた。
意を決してドアを開けると、ヤツはまだそこにいた。かろうじて動いた痕跡もなく、これから動くであろう気配もない。
(このタイミングを逃したら終わりだ)
危機的状況を察した私は、勢いよくスプレーを散布した。
そこからの展開はまるで漫画のワンシーンのように互いの動きがスローモーションで流れた。私は逃げ回る敵の居場所を的確に捉えると、二度、三度と容赦なくスプレーを吹きかけた。
運転もこれくらい俊敏かつ華麗にキマればいいのに。
そんな考えが頭の中を通り過ぎて、気付けば敵は床に落ちていた。
痙攣しながらもそこから動こうとする気配がない敵を見て、へなへなと力が抜けていくのがわかった。
(勝った…!)
謎の達成感に満たされた、その時。
私は床を這うように膝をつき、底から突き上げる咳を止められなくなった。空気を吸い込めば吸い込むほど苦しくなって、とめどなく息苦しさに襲われる。途中でそれが部屋中に散布した駆除スプレーの煙によるものだと悟った。
必死に身体を部屋の奥まで引きずっていき、思いっきり窓を開けた。
白い煙は少しずつ外へ流れ、ひんやりとした山の空気が入ってくる。その後も絶え間なく続く息苦しさに自然と涙が溢れて、このまま虫に重ねられて死ぬのではないかと思った。
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ようやく正常な意識を取り戻した頃、私はゆっくりと床を見た。
脱け殻のような茶黒い塊が、変わらずそこにある。
本当に苦しかった。
自分の身を守るために散布したスプレーに、逆に殺されかけるとは夢にも思わなかった。
きっとこの不法侵襲者もそう思ったに違いない。何の悪気もなくそこにいたであろう命に、
こんな苦痛を与える権利が私にあったのだろうか。運転の実習では、常に人を轢いてはいけない、他の車と衝突してはいけないという意識が渦巻いていて、私の世界に人間外を守るという法律などなかった。
この世界の存在に優劣をつけて良いほど、私達の価値は重いのだろうか。
私はティッシュを数枚手に取り、そっと戦友を救い上げた。
コンクリートジャングルでは味わえない広大な自然が私の元へ送り込んだ生命は、思った以上にずっしりと重い感触を残したのだった。
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