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女房が日記を記したのはいつからか? かな日記と『土佐日記』(小倉慈司)

※ このnoteは「REKIHAKU 特集:日記が開く歴史のトビラ」(2021年6月刊行)に掲載されたコラムの転載です。

かなを用いて日記を書くことは貫之の発明ではなかった

「かな日記」と言えば、古代では紀貫之『土佐日記』が有名である。「をとこ(男)もすなる日記といふものを、をむな(女)もしてみむ、とて、するなり」で始まる創作文学であり、土佐から帰任する国司に随従する女性の立場で記されているが、貫之が土佐守の任を終えて都に戻るのは九三四(承平四)年末から翌年にかけてのことで、それからまもなく執筆されたらしい。ただ、かなを用いて日記を書くことは貫之の発明ではなく、それ以前にかなで日記を記した女性が存在していた。藤原穏子(やすこ)である。

穏子は関白藤原基経の娘として八八五(仁和元)年に生まれた。人康(さねやす)親王の娘を母とする。数え年七歳のときに父基経が亡くなった後、兄の時平は穏子を皇太子敦仁親王(醍醐天皇)元服時(八九七〈寛平九〉年。親王は元服当日皇位についた)に娶せようとしたが、皇太子の祖母班子(なかこ)女王の反対により、実現しなかった。班子女王が亡くなった翌年の九〇一(昌泰四)年三月に突如入内し、天皇の女御となる。これには宇多上皇が怒ったものの、いまさらどうしようもなかったという。政略結婚の匂いがするが、醍醐天皇自身は乗り気であったようである。穏子は九〇三(延喜三)年に男子を出産する。この子は早速、皇太子となるが二一歳にて急病死した。その年に穏子は皇后となり、次男(のちの朱雀天皇)を出産、さらにその三年後の九二六(延長四)年には三男を出産した(のちの村上天皇)。この他、女子も一人出産し、甥の藤原師輔に嫁がせている。醍醐天皇が亡くなった後も皇太后、太皇太后として重んじられ、九五四(天暦八)年、七〇歳にて生涯を閉じた。

歌合の記録が作られた背景からわかること

穏子の日記は残念ながらごく一部の記事が「太后御記」「大宮日記」として『源氏物語』の注釈書である『河海抄』などに引用される形で伝わるのみであり、九二八(延長六)年から九三四(承平四)年までの記事七条が確認される。ただし記主であるはずの穏子自身に敬語が使われているとして、穏子の著作ではなく、側近の女房が記したとする見解も根強い。しかしそれは単なる丁寧表現と解せられ、穏子の行為にかかる語に尊敬語が用いられていない箇所があることからすれば、やはり穏子自身が記したと考えるべきであろう。記事自体はいずれも祝賀行事に際しての贈答の記録や宮中行事の記録であり、事実を淡々と記している。

実はこの穏子の日記以前にも、かな日記と呼び得るものは存在する。九一三(延喜一三)年三月に宇多法皇が行なった『亭子院歌合』の冒頭に女流歌人伊勢がかなを主体とした歌合の記録(歌合日記)を記している。これは日次(ひなみ)記ではないが、そのような歌合の記録が作られた背景には、すでに女房がかな日記を記す習慣が存在していたとみなすべきである(そもそも日記は日次記に限られない)。とすれば『土佐日記』の意義は、それまで事実を綴ってきたかな日記に、創作の愉しみ、感情の表出を加えたところにあると考えられる。


系図
『河海抄』巻13若菜上所引「太后御記」(国立歴史民俗博物館蔵)。934(承平4)年の忠平主催の穏子五十賀に際し、穏子は忠平に先代の筆跡の『万葉集』などを贈った



小倉慈司●文OGURA Shigeji 国立歴史民俗博物館准教授(日本古代史)【論文】「前近代の年号」(『日本語学』503、2020年)、「『延喜式』巻9・10の写本系統」(小口雅史編『古代東アジア史料論』同成社、2020年)、「皮革生産賤視観の発生」(『日本史研究』691、2020年)【趣味・特技】目録づくり


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