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名もなき人々の小さな日朝関係史―瀬戸内漁民の朝鮮海出漁─(松田睦彦)

※ このnoteは「REKIHAKU 特集:いまこそ東アジア交流史」(2021年2月刊行)に掲載された特集記事の転載です。

残された一枚の画幅「愛媛県越智郡魚島村韓国出漁之状況」

 東西に長い瀬戸内海の中央、燧灘(ひうちなだ)の真ん中に浮かぶ島、魚島(うおしま)。島の面積は一・三七平方キロメートル、周囲は六・五キロメートル。愛媛県越智郡上島町に属する小さな島である。

画像5魚島の港と集落(2018年撮影)

漁業の盛んなこの島には、漁船団の出航の様子を描いた、一枚の画幅が残されている。一九〇七(明治四〇)年に描かれた「愛媛県越智郡魚島村韓国出漁之状況」である。地形や集落の配置から見て、魚島を北側から俯瞰した絵であり、画題の通り、韓国(大韓帝国)、すなわち朝鮮への出漁の様子を描いたものである。

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「愛媛県越智郡魚島村韓国出漁之状況」(複製、原品1907年、歴博蔵)

少し細かく絵を見ていこう。画面の上半分には連なる二つの山が描かれており、左の山のふもとには集落が見える。その左端には堤防が築かれ、内側には船が舫(もや)われている。画面右側では磯が海につき出し、その沖には小島が見える。一方、画面の下半分は海で、沖には大きな船が八隻、小さな船が一六隻浮かぶ。大きな船一隻と小さな船二隻がセットのようにも見える。すべての船の舳先が画面右側、すなわち西の方角を向いている。それぞれの船尾には幟が立てられ、大きな船の帆柱には日章旗が、小さな船の船尾には五色の吹き流しが風になびく。剥落が多く見えづらいが、大きな船には一〇人ほど、小さな船には一二人ほどが乗り組んでいるようである。

集落前の砂浜には、多くの人の姿が黒い線で簡略に描かれている。彼らは大きく両手を振っている、あるいは万歳をしているように見える。船上の人々も応えるように両手をあげている。大きな船のうち西寄りの三隻では、帆を張る準備がはじまっている。いままさに、朝鮮へ向けて出航しようとする場面である。

彼らが目指したのは、慶尚南道にある巨済島の旧助羅(くじょら)(現在の慶尚南道巨済市一運面旧助羅里(キョンサムナムドコジェシイルウンミョンクジョラリ))という小さな村である。旧助羅はカタクチイワシの好漁場として知られ、多くの日本漁民が集まる地であった。とくに「愛媛県漁民は十数年来毎年渡来して此地を根拠」としていたといい、一九〇七年にはついに「移住するもの八戸、二十人を出せり」という(『韓国水産史』第二輯、農商工部水産局、一九一〇年)。

画像5旧助羅の港(2017年撮影)

一九〇七年という年代と、八戸と八隻という数字の一致の外に確たる証拠はないが、移住した「愛媛県漁民」とは魚島漁民のことで、この移住を記念して描かれたのが「愛媛県越智郡魚島村韓国出漁之状況」ではないか、というのが現在の見立てである。

朝鮮海出漁の背景

日本漁民による朝鮮半島近海への出漁は、近世には対馬への出漁の延長線上でおこなわれていた。ただ、これは幕府の禁を破るものであり、発見されれば罪は重い。しかし、明治に入って鎖国が解かれ、日朝修好条規(一八七六〈明治九〉年)によって日本と朝鮮の間の往来が可能になると、瀬戸内海や九州の浦々からの朝鮮海出漁が盛んになった(松田睦彦「明治16年『貿易規則』以前の朝鮮海出漁―前史としての対馬出漁とその意味」『国立歴史民俗博物館研究報告』二二一、二〇二〇年)。さらに、「朝鮮国ニ於テ日本人民貿易ノ規則」(一八八三〈明治一六〉年)と「日本朝鮮両国通漁規則」(一八八九〈明治二二〉年)が締結されることで、日朝の漁民が双方の決められた海域で漁をし、現地で漁獲を販売することが可能となった。しかし、当時の朝鮮漁民の漁撈技術や航海技術のレベル、違反漁民の処分方法などを考慮すると、これは日本漁民に圧倒的に有利な取り決めであった。

このように、日本漁民の出漁環境が整備されると、朝鮮海出漁は活発化した。魚島漁民による巨済島への出漁も、こうした時代的背景のもとにある。

画像5魚島と巨済島

魚島漁民の出漁は一八九〇年前後(明治二〇年代前半)にはじまった。目的はカタクチイワシの漁獲と煮干しの製造である。魚島は古くからタイ漁が盛んで、明治初期には縛網が大々的に操業されていた。ただ、漁期は「魚島どき」と呼ばれる春の一時期だけであり、その収益は多かったものの、一年を通して営める漁ではなかった。また、明治に入ると島の人口は増加の傾向にあった。そこで、魚島の人々が活路を見いだしたのが、漁業資源の豊富な朝鮮半島近海への出漁であった。とくに巨済島の海は「鯛、鰆、鯖、及其他雑漁業ノ漁場トシテ周年間断ナキ」とされ、「就中(なかんずく)鰮網漁ノ如キハ韓海ノ漁業中指ヲ第一ニ屈スベキ集合漁業」とまで評されていた(『韓国水産業調査報告』一九〇六年、農商務省水産局)。こうした情報が魚島に伝わると、まずは進取の精神と資金を持ち合わせた島の有力者が対馬海峡を渡り、その成功を見て多くの人が続いた。一九〇七年の魚島からの出漁は、母船八隻、漁船四〇隻、従業人員三六〇人におよんでいる。

出漁生活と地元住民との関係

巨済島での漁期は旧暦の三月から一二月ころまで。二月に魚島を出て、旧正月前に戻るという生活だった。一九二一(大正一〇)年ころには、現地に船を残し、人だけが関釜(かんぷ)連絡船で往来するようになったが、それまでは魚島から巨済島まで、帆と櫓を使っておよそ一二日間の航海をしたという。船は下関・若松・壱岐・対馬と渡っていった。一九一八(大正七)年に高等小学校を卒業し、すぐに漁に参加した小川初次郎は、はじめての玄界灘が「死ぬほどこわかった」と回想する。

やっとの思いで旧助羅に着くと、まずはひと月ほどかけて網の修繕である。その後、漁がはじまると一〇カ月におよぶ海上生活が続く。漁獲の陸揚げや網の補修で陸に上がることはあっても、寝食はずっと船の上であった(「150万人愛媛の昭和史 朝鮮出漁①~③」『愛媛新聞』一九八一年六月五日、七日、八日)。当時の漁法は巾着網と地曳網である。巾着網は一八九七(明治三〇)年の第二回水産博覧会以降に導入された。それまでは曳網が使われていたという。地曳網の漁場は旧助羅を囲む湾内で、巾着網の漁場も浜から見える範囲内が多かった。

さて、煮干しを作るには、獲ったカタクチイワシを釜茹でして天日干しにする。そのためには陸上での作業場が必要となり、湯をわかすための薪も確保しなければならないが、出漁初期の段階では、これが地元住民との摩擦の原因となった。

明治二九(一八九六)年、二年目の出漁で旧助羅の砂浜に小屋掛けをしていた横井庄平らは、竹やりを持ち、筵旗を掲げた三〇〇人以上もの地元住民に取り囲まれた。漁をすることは条約で認められているが、小屋掛けは許されないというのである。この時は、朝鮮人の老人とその甥が間に入って住民を説得し、事件の知らせを受けた釜山領事も駆けつけて事なきを得たが(村上和馬編『魚島村誌資料編』越智郡魚島村、一九九三年)、日本漁民と地元住民との対立は朝鮮各地で起こり、死傷事件に発展することもあった。

こうした対立は、朝鮮半島での日本の影響力拡大のもと、日韓両国漁民の相手国における漁を全面的に認めた「日韓両国漁業協定書」の締結と日本の漁業法を下敷きとした「韓国漁業法」の制定(ともに一九〇八〈明治四一〉年)、そして韓国併合(一九一〇〈明治四三〉年)といった過程を経て潜在化したと考えられる。

ただ、制度に依存するのではなく、当事者同士で問題の解決を図ろうとする動きも確認できる。その興味深い例が、現在も旧助羅のマウル会(自治会)に保管される「証明書」である。

魚島の漁民七名(あるいは八名)から旧助羅里項里洞(ハンリドン)の住民に宛てて書かれたこの文書では、魚島から来た人々と項里洞の人々が兄弟のごとく互いに友好的に漁をし、問題が起きた時には裁判によって解決することが確認され、以下の五項目が約束されている。
 一 道では婦人を辱めるような言動を慎むこと
 一 漁業を介して互いに商売をすること
 一 服を脱いで村の前を歩かないこと
 一 日本人と韓国人が互いに争わないこと
 一 牛や犬を傷つけないこと

魚島の漁民としては、地元住民と対立して得るものは何もなかったはずである。地元住民の文化に配慮しながら、ともに生活を向上させようという意図を読み取ることができよう。仮に、この「証明書」に名を連ねた人々に、一九〇七年の移住者が含まれるならば、彼らにとって地元住民との共存共栄は切なる願いであったはずである。

一〇〇年の時を越えて

魚島漁民による旧助羅での漁は日本の敗戦で終わり、移り住んだ人々も魚島に引き揚げた。その後、出漁は遠い記憶となった。

二〇〇七(平成一九)年五月、両島の関係に関心を抱いた一人の巨済島民が魚島を訪問した。魚島の属する上島町では、旧知の友を迎えるように、町をあげて歓迎した。そして、その年の一二月には、魚島の一行が巨済島を訪問して歓待を受け、旧助羅の土を踏んだ。引き揚げから六二年ぶりのことであり、「愛媛県越智郡魚島村韓国出漁之状況」が描かれてちょうど一〇〇年にあたる年でもあった。

出漁時代の魚島漁民と巨済島民との関係は、おそらく「証明書」が示すような良好なものばかりではなかったはずである。現在の巨済島の人々は、上の世代から日本人の理不尽さを聞かされてきたであろうし、魚島の人々も、朝鮮での苦労話を親たちから聞いているだろう。それでも互いを笑顔で迎え入れることができたのは、両島の関係の歴史を日本と朝鮮といった国同士の歴史としてではなく、自らの祖父母や父母たちが交流することで築かれた歴史として認識したからではないだろうか。

近年、日韓間の歴史をめぐる争いは激しさを増し、民間レベルでも対立が広がっている。そこで飛び交う非難の主語は「日本人」や「韓国人」といった特定の顔の見えない集合体である。しかし、両国の歴史を構成するのは、教科書に登場するような大きな出来事や著名な人物ばかりではない。魚島漁民や巨済島民のような名もなき人々が小さな歴史をいくつも紡ぎ、それが積み重ねられて大きな歴史が形作られているのである。

いま、わたしたちに求められているのは、小さくて多様な側面を持った歴史への関心であり、良い過去も悪い過去も、個人の顔と結びついた歴史として理解することではないだろうか。


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松田睦彦●文
MATSUDA Mutsuhiko 国立歴史民俗博物館准教授(民俗学) 【著書・論文】「明治16年『貿易規則』以前の朝鮮海出漁」(『国立歴史民俗博物館研究報告』221、2020年)、『柳田國男と考古学─なぜ柳田は考古資料を収集したのか』(共編著、新泉社、2016年)、『人の移動の民俗学─タビ〈旅〉から見る生業と故郷』(慶友社、2010年) 【趣味・特技】模索中



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