シーボルト父子と一五〇年前の日本(日高 薫、福岡万里子)

※ このnoteは「REKIHAKU 特集:されど歴史」(2020年10月刊行)に掲載された特集記事の転載です。

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シーボルト父子の知られざる姿を追う国際プロジェクト

江戸時代の日本に来て、長崎・出島のオランダ商館付きの医師として、日本人に西洋医学を教えたことで有名なフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト。

幕府禁制の日本地図を持ち出そうとして国外追放され、お滝さんや娘のイネを残してヨーロッパに帰らなければならなかった彼が、年老いてから開国後の日本を再び訪れていたことはさほど有名ではない。彼が最初の来日から帰欧後、ドイツ人の貴族女性と結婚し、もうけた三男二女のうち長男と次男が、父の足跡を追いかけて来日し、明治政府のお雇い外国人や駐日オーストリア公使館の通訳・外交官となって、日欧の架け橋として活躍したことは、もっと知られていないかもしれない。

国立歴史民俗博物館(歴博)は、このシーボルト父子の知られざる側面を追いかけて、国際的な共同研究を行ってきた。

ドイツでは無名のシーボルト

日本の開国後、国外追放を解かれたシーボルトが、思い焦がれた日本に再渡航し、精力を傾けたプロジェクトには、日本の開国の手助けと、日本研究の完成という二つがある。

開国の手助けとしては、彼は、内憂外患に苦しむ幕府に何かと助言をし、一時はその外交顧問にもなった。日本研究の完成ということでは、再来日後、長崎や江戸で、書籍や絵画、硬貨、仏像、漆器、陶磁器、金工、染織、台所用品などあらゆる日本の文物を集めて膨大な日本コレクションを作った。再びの帰欧後、それらを「シーボルトの日本博物館」としてヨーロッパ各地で展示した。死後、コレクションはバイエルン王室が買い取り、現在ミュンヘンの五大陸博物館に所蔵される。

歴博は、これらの資料群を、歴博内外のさまざまな専門家や五大陸博物館側の学芸員の協力を得て、足かけ六年のプロジェクトで全点調査してきた。現在、総点数六〇〇〇点超の資料画像付きデータベースが、歴博と五大陸博物館側双方のホームページ上で一般公開されている(「シーボルト父子関係資料データベース」)。

二〇一六年にはコレクション中の優品を里帰りさせ、企画展示「よみがえれ! シーボルトの日本博物館」として紹介し全国五会場に巡回展示した。展示では、シーボルトが晩年にミュンヘンで行った最後の日本展示を、長男アレクサンダーが残した目録をもとに再現した。当時ヨーロッパでは、異文化の森羅万象を映す文物を収集して、民族学(エスノロジー)の博物館を創設して一般公開するという構想が、各地で芽生えつつあった。シーボルトはその構想のほぼ最初期の先覚者として最新の日本文化の宇宙をヨーロッパの人々に見せようとした。その世界が時空を越えて一五〇年後の日本によみがえったのである。

二〇二〇年にはミュンヘン五大陸博物館で、歴博の調査成果をもとに、シーボルト日本博物館の凱旋展示が実現された。それは日本の展示をそのままドイツに持ち帰って開催すればよかったわけではなかった。というのは、シーボルトは日本では有名人だが、ドイツではほぼ無名。江戸時代の日本文化についても同様である。そこで一五〇年前にシーボルトがヨーロッパの人々に見せようとした日本文化の宇宙を再現するという主旨はそのままに、テーマや出品資料をいかに見せるかという点は、ドイツ側のスタッフが工夫を凝らし展示を作り直した。日本側は、彼らの意思を尊重しつつ展示を実現させるためにどのような協力ができるかを考えた。

こうしてミュンヘン展では、シーボルトの人物や功績の紹介から始め、コレクションの全体像を紹介した後、資料を通じて、日本文化を伝えることができるような見せ方をした。出品資料は、日本の専門家たちのチョイスをもととして、ドイツ側が一部選び直した。結果、保存状態や大きさなどの事情で日本へ貸し出すことのできなかった重要な資料についても、ミュンヘンでは展示できることになった。細かい資料解説のある展示ガイドブックのほかに、子ども用の冊子も作られた。

シーボルトの息子の日本コレクションの、新旧の意識が交差する時代精神

シーボルトの長男のアレクサンダーは、幕末に再来日した父に伴われ一三歳で来日し、日本語を覚え、維新後は明治政府のお雇い外国人となり、ウィーンやパリでの万国博覧会(一八七三、七八年)の日本展示をプロデュースするなど日本の対外広報に活躍、条約改正交渉にも助力した。

弟ハインリッヒは、一時帰国した兄に誘われ一八六九年に一七歳で来日、やがて駐日オーストリア公使館で働いた。ウィーン万博では、明治政府の依頼で兄とともに出品の選定に関わって日本展示を成功に導く。父の影響で日本研究にも強い関心を持ち、日本における考古学の草創に足跡を残す一方、膨大な日本資料を収集してヨーロッパ各地にもたらし、日本文化の紹介に尽力した。

ハインリッヒが収集した日本コレクションについて、現在まとまった量を所蔵している機関に、ウィーンの世界博物館(以下、世界博とする)がある。それは彼が一八八八年に、世界博の前身、帝室・王室自然史博物館に寄贈したもので、近年まで未調査の状態が続いていた。歴博では二〇一六年以降、世界博の学芸員と協力しつつ、日本側から専門家を派遣して、ハインリッヒの日本コレクションの調査をあらたに行っている。

彼が収集した日本の文物は、父同様多岐にわたり、漆器、陶磁器、仏教彫刻など共通の分野も多いが、彼自身の興味や時代背景を反映し、とくに考古資料、アイヌ・琉球関係資料などの分野が、比較的充実している。彼が資料を盛んに収集した明治初年の日本は、急速に流入する新しい文化を受け入れつつ、外からの視線が逆に古いものを見直す動きを生み出し、あらたな価値観や制度が芽生えた時代であった。こうした新旧の意識が交錯する時代精神が、そのコレクションには映し出されている。例えば陶磁器類には、江戸時代以来の有田焼や薩摩焼などが海外輸出向けにリバイバルされた作品が多く見いだされ、楽器類には、明治初期の復古的風潮から追慕された古楽器や、それを模して新規に考案された楽器などが目立つ。

二〇二〇年には、これらのコレクションの調査成果を速報的に公開する企画展示をウィーン世界博で開催した。ここでは、ミュンヘン展での実践をバージョンアップさせ、企画展示から出品資料の選定、会場の構成、カタログ作成まで、すべての準備をウィーン側と日本側との協働で進めた。世界博と歴博を中心に、関係者が意見を出し合いながら、一つの展示を構築していったのである。その過程では、相互の役割分担や経費分担を明確に取り決め、できるだけ両者が対等な立場で展示に関わるよう努力した。そのように負担を分け合い協働することこそが、真の意味での国際連携といえると考えたからである。例えば、出品資料のもととなる優先順位を付したリストは、ミュンヘン同様、日本側の専門家らが提出したが、世界博の判断基準で新しい出品資料を加えたり、選択をしたり、両者の合意の下、最終的な展示品を決定した。

展示の切り口は、一九世期後半に撮影された四枚の古写真である。これらは、ハインリッヒがコレクションをヨーロッパへ持ち帰り展示した際の風景を写したもの。歴博がミュンヘン五大陸博やウィーン世界博でのモノ資料調査と並行して、文献資料調査を続けてきたシーボルト(父)の子孫宅(ブランデンシュタイン城)で、二〇一四年に発見された。この写真をみると、陶磁器と農具・漁労具、アイヌ関係資料、貨幣など、似通った素材や形の資料を壁面に模様を描くように幾何学的に配置していく手法がとられ、現在の展示方法とはかなり趣が異なる。これは万博が盛んだったこの時代の陳列にしばしば見られる独特のもの。ウィーン展では、これらの古写真を入り口に、欧米諸国との関係を急速に深めていった明治時代の日本と、収集品を受容した同時代のヨーロッパを、両者の橋渡しをしたハインリッヒのコレクションを通じて追体験できるようにした。

文化を異にする海外との仕事で考えたこと

日本では学芸員が何でもやらなくてはならないが、欧米での展覧会は、展示準備を進めていく上で、デザイナーが果たす役割がとても大きい。わたしたちが関わったヨーロッパでの展示ではいずれも、展示場やカタログのデザイナーが強く主張し、学芸員もデザイナーの意見を尊重する傾向があった。展示のキャプションに関し、日本では来館者の読みやすさが最優先され、どの美術館・博物館も、展示ケースのなかに大きなプレートを置くことが多い。

しかし欧米の場合は、大きなキャプションプレートはデザインを損ねるため、ケース内に置くことはできないということらしい。ミュンヘン展では資料の脇には出品番号のみ、ウィーン展では最低限の情報の小さなキャプションプレートが置かれ、詳しい情報は別売りまたは無料のブックレットを読むという方法がとられていた。

わたしたちの在外資料調査プロジェクトでは、展示を軸として、国際的に日本文化研究を底上げしていくことを目指してきた。確かに国際共同展示は国内外で反響を呼んだが、残念に感じていることもある。日本の学会コミュニティーにおいては、論文や口頭発表などが重視され、いまだに展示を事業とみなし研究業績として評価しない傾向が強い。資料と展示、研究を有機的に連携させることの研究的意義はなかなか理解されていないのである。シーボルトが一五〇年前のヨーロッパで日本文化を紹介したときに、『Nippon』のような書籍の刊行だけでなく、博物館という場で実物を見せるという選択をし、個人的なコレクションを並べることから始まった展示が、一九世紀には市民に支持され、社会教育の重要な機会として発達したことなどを論じるまでもなく、展示というメディアが担う役割の重要さ、インパクトの強さは、研究のレベルでもっと評価され、活用されるべきだと考えている。

ミュンヘン、ウィーンの展示では、日本側の価値観や常識にとらわれず、文化を異にする海外の連携先担当者との話し合いを積み重ね、よりよい展示を作り上げることを目指した。困難にぶつかり、ときには意見が食い違ったりしながらも、海外の同僚と理解し合い、連帯感が生まれた瞬間が、何よりも心に残っている。

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日高 薫●文
HIDAKA Kaori 国立歴史民俗博物館教授(漆工芸史) 【著作】『URUSHIふしぎ物語―人と漆の12000年史』(共編著、展示図録、国立歴史民俗博物館、2017年)、『異国の表象 近世輸出漆器の創造力』(ブリュッケ、2008年) 【趣味・特技】大人のピアノ、バスケットボール観戦

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福岡万里子●文
FUKUOKA Mariko 国立歴史民俗博物館准教授(東アジア国際関係史) 【著作】「ドイツ公使から見た戊辰戦争―蝦夷地と内戦の行方をめぐるブラントの思惑」(奈倉哲三・保谷徹・箱石大編『戊辰戦争の新視点(上)世界・政治』吉川弘文館、2018年)、『プロイセン東アジア遠征と幕末外交』(東京大学出版会、2013年) 【趣味・特技】時短で作れる美味しい料理の探索、語学の勉強

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