見出し画像

移民・難民問題を発信するということ 望月優大×西 亮太

雑誌『KOKKO』(こっこう)の連載「難民アートプロジェクト」第6回は番外編として、ゲストに望月優大さんを迎え、連載執筆者の西亮太さんと対談していただきました。

制度から変えていく

西 この連載で扱っている「難民アートプロジェクト」はもともと大学のプログラムの引率先として知ったプロジェクトなんです。平たく言うと感動したんです。
 人びとがおかれた困難な環境で表現していることに惹かれて、個人的に関わるようになり、このオーストラリアの難民のおかれている状況を知ってもらうためにはじめた連載です。
 それと並行して報道等でも知っている日本の難民の状況にも関心があったんですが、当然、繫がる問題があります。そこで望月さんのご著書『ふたつの日本』も面白く読ませて頂きました。

望月優大『ふたつの日本:「移民国家」の建前と現実』(講談社現代新書)

画像2

望月 一口に移民・難民問題といっても、技能実習や入管収容、難民認定など個別のテーマごとに報道されることが多く、さらに現状だけでなく歴史も含めて理解したいと思うと全体像をつかむのが難しいですよね。
 ここ数十年の間、このテーマに対する一般からの関心が必ずしも大きくない中で、保守政権下でいつの間にか進んできた外国人受け入れが様々な建前と現実との乖離として現れていて、それによって不利な目に遭っている方がたくさんいます。
 『ふたつの日本』を書いたのは、広く入り口になるような情報を多くの人にまずは知ってもらい、実際こうなんですけどどう思いますか、これからどうしていきますかという話を始めたかったというのがあります。

西 ご著書の後半にいくと、制度的にかっちりとした「こういう法です」ではなく、グレーゾーンが大きく設定されていて、政府の裁量に委ねられているということについて、強調して書かれています。
 そうした制度の裁量性の高さの中で、建前と現実の複雑さが出てくると考えておられるからなのでしょうか。

望月 戦前と戦後の間にある大きな断絶として天皇主権から国民主権への変化があります。天皇に主権があるという形から、人々が本来的に持っているとされる権利や権力を基礎にしてその権力を政府へ預けるという考え方に変えたわけです。
 ですが、この国民国家の枠組みでは国籍を持っているという形式的なメンバーシップを通じて普遍的な人権を保障することになるので、外国籍者に対してどの程度の権利を保障するかという問題が出てきます。
 普遍的な人権は外国籍者であっても当然持っているわけですが、それぞれの国家がその保障をどの程度行うのかという部分については国ごとにスタンスの差があり得る。
 どの程度の権利を保障するかという問題が出てきます。そうした構造的なテーマが存在する一方、日本政府はその裁量をすごく広く取ろうとしているように見えます。
 普遍的な人権は外国籍者であっても当然持っているわけですが、それぞれの国家がその保障をどの程度行うのかという部分については国ごとにスタンスの差があり得る。
 外国籍者であっても持っているはずの権利によって自らの選択肢が縛られることを嫌い、政府の側に裁量という名の自由を維持しようとしているということです。
 そうした構造的なテーマが存在する一方、日本政府はその裁量をすごく広く取ろうとしているように見えます。たとえば永住者の在留資格を持っていたとしても、法律に違反するなどした結果取り消しになることもありえます。
 外国籍者であっても持っているはずの権利によって自らの選択肢が縛られることを嫌い、政府の側に裁量という名の自由を維持しようとしているということです。
 それは、日本国籍者には絶対に起きないことです。
 たとえば永住者の在留資格を持っていたとしても、法律に違反するなどした結果取り消しになることもありえます。刑務所に入れられることはあっても、日本自体にいられなくなるなどあり得ないですよね。
 それは、日本国籍者には絶対に起きないことです。そして、本来は持っているはずの権利を政府の裁量によって削られてしまうという構図が最も当てはまるのが、在留資格を持っていない人たちだと思います。
 刑務所に入れられることはあっても、日本自体にいられなくなるなどあり得ないですよね。なにか卑怯な感じがするのは、現実にはいろいろな在留資格を準備して外国人労働者の受け入れを強化しつつ、保守的な支持層を納得させるために、「難民制度の取締りを強化します」とか、「強制送還をがんばります」などの言葉と共にこの裁量や自らの取締りの能力が強調されるという構図が繰り返されていることです。
 そして、本来は持っているはずの権利を政府の裁量によって削られてしまうという構図が最も当てはまるのが、在留資格を持っていない人たちだと思います。自分たちの政策を正当化するために、普遍的な人権から相当引き算された人たちをいけにえのように扱っている。
 なにか卑怯な感じがするのは、現実にはいろいろな在留資格を準備して外国人労働者の受け入れを強化しつつ、保守的な支持層を納得させるために、「難民制度の取締りを強化します」とか、「強制送還をがんばります」などの言葉と共にこの裁量や自らの取締りの能力が強調されるという構図が繰り返されていることです。
 極めて不誠実だしひどい話だなと思います。

西 そうですね。裁量の幅をつくっておいて、何か問題が起きたときに、それは悪用されたんですっていう言い方はすごく簡単にできてしまいますし、建前論がかなり簡単にできるようになっています。
 要するに責任を取らない体系ですよね。
 そういうことに対して、オーストラリアではNGOやNPOなど、何かあったらすぐ街頭に出てくる人たちがたくさんいます。
 たとえば難民の問題では、周辺的な島へ収容所を置いて法の外部として人権も何もないという扱いをし続けたことに対して「その裁量は問題がある」という動きが大きくあり、一時その収容所は閉鎖されたりもしました。
 もちろん、日本にも運動はありますがメジャーなところで大きく見えてこないですよね。
 シドニーで学生をマルディグラ・パレード(ジェンダーマイノリティやセクシュアルマイノリティの世界最大級のパレード)や、その準備をする様々なNGOへ連れて行くと「こんなに人が動くのか」「日本でこういうことがないのは何故でしょう」と毎年どの学生も驚くんですよね。
 この違いはどう思われますか。

望月 「そういう文化がある/ない」というのは、どう評価すればいいかというのは、分からない部分もあるのですが、日本でも例えばレインボープライドのパレードなど少しずつ勃興してきていると思うんですね。
 だから、このまま育っていくといいなという気持ちはあるし、そこに対して何か自分でもできることがあるといいですね。
 移民のテーマについていうと、日本が建前のところで最後守っている線というのが国籍だと思っていて。
 戦前からのオールドカマー、主に80年代以降に日本へ来たニューカマーという言い方がありますが、後者ですら既に2 世の方たちの多くが僕と同じぐらいの年齢になっているわけです。けれど、日本国籍を持っていない人も多い。
 なぜかと言うと、日本の国籍制度は1985年から父母両系にはなったものの引き続き血統主義だからです。
 結果として、日本生まれで日本育ちでファーストランゲージも日本語だけど、「あなたは外国人なので、就学義務もない、参政権もない、選挙にも出られないのであなたが総理大臣になることは帰化しない限り絶対にあり得ません」、そういう風に扱われてしまう人たちがいっぱい生まれています。
 つまり、制度の中では自分の声をあげていくルートが閉ざされているわけです。
 それはオールドカマーの人たちはずっとそうだったわけで、80年代に日本が難民条約を批准することに伴って様々な社会保障の法律から国籍条項がなくなるまでは、年金などからも排除されていました。
 難しいのが、このテーマに関心を持った方も、権利が制限されているのは仕方がないという前提は受け入れた上で、「でもかわいそうだから助けよう」といった形で見てしまうところがある。
 しかし、温情的に助ける、助けないみたいな視点で捉えてしまうと、政府の今のスタンスをむしろ反復してしまうようなところがあります。
 長期収容にしても、様々な在留資格にしても、憲法ではなく法律レベルで決まっていることなので議会を通じて変えられるし、その下の法律の運用レベルの問題についても内閣が各省に対して適切にコントロールをすれば変えられるものです。かわいそうだから助ける対象として見るのではなく、本来持っているはずの権利が制度的に保障される状況へと変えていくべきだと思います。
 例えば複数国籍を許容しつつ、出生地主義の要素を取り入れるということを決断できれば、これまでは外国籍とされてきた人たちが自分で投票したり、政治家になったりすることで、制度内でのセルフ・リプレゼンテーションが可能になります。
 権利論としてそうあるべきだし、同時に社会変革を進める上でもそこが鍵になるような気がしています。

西 なるほど。今の話は大きな制度上の大工事をやれということでなく、少なくとも領域的な国家の中で一緒に生活しているのに、片方にはフルシチズンシップ(成員としての権利をすべて持っていること)があって、片方にはそれが削られたものしかない状況をどうするのかという話でもありますね。

望月 今年出生地主義の要素を取り入れて、来年いきなり海外にもルーツを持つ人が総理大臣になる、そういうことはなかなか難しいかもしれません。
 でも時間がかかるかもしれないからこそ、準備はなるべく早く始めておいた方がよい。
 この本を書いたときには、現状からの出口を考えるのが難しいと思っていたんですが、国籍制度の変化を考えるのが重要ではないかと今は思っています。
 例えば「日系ブラジル人」と聞いて違和感を感じる人は少ないと思います。
 でもそう呼ばれる人たちの中には、血統主義的な考え方を当てはめれば「ブラジル人」ではなく「日本人」と整理されうる人もいます。
 でもブラジルは出生地主義なので、ブラジルで生まれたら「日系」がついても「ブラジル人」になります。その仕組みを私たちも「日系ブラジル人」という言い方で実は受け入れているわけです。
 「何々系日本人」という呼称がベストかどうかはともかく、同じような考え方を取り入れればいいんじゃないか。
 「日本人」と言ってもいろんな人がいて当たり前だよねという変化を、国籍法の条文を変えることで起こせるのではないでしょうか。

フルシチズンシップの在り方と複層的な構造

西 ただ、そこで難しいなと思うのは、学生といろいろ話をして気になることなのですが、たとえば「やっぱり同性婚が重要だ」と主張する学生がいたりする。それは、「普通」の異性婚に温情措置として、場合によっては同性も入れてあげますというような感覚です。
 同じ人間として育ったんだから、イコールで当然でしょ、という感覚にいくのにすごく時間がかかるんですよ。
 かわいそうな人たちだから、何とかしてあげようという感覚です。
 実際には、いわゆる婚姻を求めている同性カップルの人たちがフルじゃない状態にあり、自分がたまたまフルシチズンシップで全部そろっていて、他方の同性カップルは、たまたまそろっていない。
 別に好きで選んだわけではなくて、結果そうなっている。
 この構造的な違いはまずいよねっていう感覚になかなかたどり着かないわけです。
 国籍の話にしても、人間としての権利があるのは当然なのに、結果的にその権利が削られている人がいる。
 削る構造の中に自分もいる。
 削ってることを、まずはちゃんと認識しましょうっていう議論が、立ち上がるのが非常に難しいんですね。
 そうなればいいなとは、僕も本当に心から思うんですが。

望月 フルシチズンシップはある種の既得権益のような側面がありますが、構造的にその権利を持っている側にいる人たちが、これは「温情をお願いします」という話じゃないんだという認識を持てるかがすごい大事だと思うんです。
 ただ、「俺たち、削ってるよな」という認識は大事なんだけど、同時に実際に削られている側にしか分からないこともたくさんあると思います。
 悔しさとか具体的な体験も含めて。
 削られている側の人たちに自己責任で自分たちを防御してくれという意味では断じてないのですが、自分たちは削られているんだ、削らないでくれという声をつぶさないことがすごく大事です。
 機械じゃないので誰でも生まれたときから人権思想が染み付いてるわけではない。
 いろんな文化的な偏見とか、そういう偏りみたいなものが出てきてしまう部分はあると思うんですよね。
 だからこそ、それをどう変えていけるか。
 自分たちは削られていてきついし、しかもそれってフェアじゃないという「削られた側から発せられた声」をその学生さん達も含めて色んな人に聞いてもらうことが大事なのではないでしょうか。
 西さんがオーストラリアのアートプロジェクトに着目される理由ともきっとつながるのかなと思ったのですが。

西 そうですね。「実はあなたも暴力に加担してるんだよ」とだけ言われても「そうかもしんないけどさ」って反発になりがちです。
 そういう意味ではアートとかで削られてる側の人たちの声が持つ力ってあるんですよね。
 これはもう完全な感情論ですが、非常にエンパワリングというか。
 確かに悲しい場面もあるし、しんどいのだけれども、それで終わらないっていうところがあるんです。
 そういった意味では、日本の技能実習生の方たちに関しても、いろいろ声を上げたりもされ始めてはいますけど、どうしても悲しい話を繰り返し出していくことになってしまっています。
 そうなると、悲しいから温情にしよう、あるいはわれわれは本当にひどいことをしてるんだねという罪悪感にもちこまれてしまう。

望月 私が難民支援協会と共に運営している『ニッポン複雑紀行』も、基本的にはインタビュー形式で本人の言葉をできるだけそのままの形で載せるようにしています。本人の言葉からこそ見えてくるものがある。
 例えばある一人の人がすでに日本で20年、30年と暮らしているけれど今も日本語に不自由しているという話を聞きます。
 でも、それって一人一人の偶然ではなくて政策の結果、不作為の結果でしかないということがどんどんわかってくるんですよね。
 日本は様々な形で外国人労働者の受け入れを進めてきたわけですが、建前として短期的な受け入れを掲げてきたので、長期的な定住を前提とした生活支援、それからファンダメンタルなインフラとしての言語に対する支援が全然足りていない。
 だからこそ、日本中に同じような人がいっぱいいるわけなんですよね。それを変えないといけない。
 そういう構図が最も濃縮された形で現れているのが、長期収容の問題だと思います。
 要は、かつては労働者として歓迎していた、でももういらなくなったから帰ってほしい、いきなりそう言われても帰れない人がいるのは当然のことです。にもかかわらず、自分たちの好きなように思い通りにできるという根源的な前提があると思います。
 そこを変えて、運用やルール自体を作り直していかないといけない。今の政府は別にOKと思っているのかもしれませんが。

西 良くする気ないですもんね。どう考えても。

望月 『ニッポン複雑紀行』で一番読まれた記事はいわゆる「ハーフ」についての記事なんです。
 「「日本人」とは何か?「ハーフ」たちの目に映る日本社会と人種差別の実際」というタイトルで。
 この記事にはガーナのお父さんと日本のお母さんの間に生まれた翔さんという方が話してくださったことが書いてあります。
 彼は日本国籍を持っているんですが、よく路上で警察からの職質にあうそうなんです。
 自分1 人でいるときに職質を受けると、「日本人ですよ」と言っても「いやいや外国人登録証がないとだめだよ」と言われてしまう。
 でも日本のお母さんが「彼は日本人なんで登録証は必要ありません」と説明したら一発で納得してくれたんだと、そういう話をされています。ここには、さっきまでの話と少しねじれた構図があります。
 つまり、日本国籍を持っていて、形式的にはフルシチズンシップを持っているんだけれど、警察の職質にあいやすいとか、学校でいじめにあいやすいとか、そういう形で実質的には様々な権利が削られやすい状況の中を生きている人たちがたくさんいるということです。
 この社会には見た目で日本人、日本国籍者かどうかを判定できるという根深い思い込みがあるんですね。
 国籍と見た目の関係についての事実とは乖離した思い込みが変わらない。大人だけでなく、子どもたちの間にもそういう偏見が伝わっている。
 それによって現実の日常生活の中で削られている人たちがいるということが、この記事が一番読まれているということによっても証明されていると思うんですが、本当によくあることなんだと思います。
 フルシチズンシップを持っていながら差別、偏見、レイシズムの対象になりやすい人も増えていく。
 そして、同時に技能実習みたいなものを続けていくことで、フルシチズンシップを持っていない人も増えていく。
 複雑なレイヤーのどこにいるかによる違いはありますが、2 級市民、3級市民のような扱いを受ける人が割合としてどんどん増大していくという状況になっています。
 制度的な排除に、文化的で感情的な排除、レイシズムが重なっている。
 ある人は制度的にも排除されているし、同時にレイシズムによっても被害を受けている。
 ある人は制度的には排除されていないけれど、レイシズムの対象にはなってしまう。
 そういう複層的な構造があります。

西 文化を変えなきゃ、意識を変えなきゃ、というのは、なかなか難しくて。
 だから、てこ入れをぐっとするような意味で、まずは制度論をしっかりやって、制度の中にある問題をちゃんと変えて、それによって文化も醸成していくっていう形に、なるんだろうなという気はします。

望月 今の日本では、外国籍者が人口に占める割合が2 %と少しです。
 日本国籍者のボリュームが大きいのでどうしても小さく見えますが、これから日本国籍者がすごいスピードで減っていき、かつ今のようなスピードで外国籍者が増え続けていけば、その割合も一気に変わっていきます。
 そうした変化をただ手をこまねいて待っているのではなく、必要な論点を提示して、意識にしろ制度にしろできるだけ早く変化を起こしていくというようなことができたらいいなとは思っています。

イシューの伝え方

西 私は文化に関心を持ってる人間なので、では、それで一体何ができて、どこにどういうふうな形で手を突っ込んだら、うまいこと動かすことができるのっていうのが、なかなか難しいですね。
 「移民とか、外国人増えたら、だって犯罪が増えるんでしょ」って、臆面もなく言う学生の反応をどう変えていくか、なども含めて。
 それを「何だと!」って責めても変わらない。

望月 先ほども例にあがった同性婚についてなのですが、社会問題にも意識のある良心的な方と話していて「でもやっぱり子どもが減っちゃうから難しいところだよね」と悪気なく言われたことがあって。
 これはよくある誤解でこの言葉だけを切り取るとひどい話なんですが、単に知識不足だったということもある。だから、そこで切ってしまわずにきちんと説明をしてわかってもらうことも大事だと思います。
 自分自身もたまたま移民というテーマについては普通の人より少しだけ詳しいけれど、他の問題については素朴な思い込みも結構あるんだろうと思うんです。
 だから、見た目の言葉が全く同じでも、人によって対応の仕方を変えないといけない場合があるとは思います。
 明らかに悪意がある人、そうじゃない人、同じやり方でいくと間違えてしまう気がしています。

西 言葉の選び方とか、打ち出し方、どういう形で議論をテーブルに乗せるかっていうのは難しいんだなと思います。
 そういった意味で、ご著書ですごく平易に、かといって、内容のレベルはできるだけ下げずに書いておられるのが印象的でした。
 こういうことを文学者もやんなくちゃいけないんだなと思いながら、ご著書を読んだんです。

(編集部) 言葉使いの外に、SNSの使い方であるとか伝達の回路で意識
されてることはありますか。
 この『KOKKO』という雑誌でも「コミュニティ・オーガナイジング」のことを取り上げたり、「いかに伝えるか」ということは意識をしているのですが。

望月 そうですね。少し整理をすると、自分とはすごい考え方が遠い人と、情報の流通経路的に届きづらい人というのが、掛け算の関係であると思うんです。考えの近い/遠いという軸と、うまくやれば届く人/届かない人という軸。
 後者の軸について言うと、テレビしか見ていない人にはテレビに出ないと届きようがないし、新聞しか読まない人には新聞に出ないと届きません。
 Twitterでもどうにか届けられる人とは違います。
 それぞれに対する届け方というのは絶対違うわけです。
 そこに、前者の軸を掛け算すると、例えばTwitterにはいるけれど自分とは意見が遠いという人がいます。
 意見の違いというよりはそもそもそんなに関心がない人もいる。
 発信の仕方によってどの人たちに届くのかも違うし、届いたとしてそれぞれにどういう印象を与えるかも違う。
 書き方によっては「うわ、なんか自分も責められているのかな」みたいな感じになってむしろ遠ざけてしまうこともあると思います。
 逆に言えば、うまく届いた上で、自分も少しかかわってみようとか、そういうポジティブな影響がある場合もあるはずです。
 書き方の違いによって、そういう効果の差が生じると思うんですよね。
 同時に、これこれの媒体では届き得ないという人たちには、届く媒体を考えないといけないし、その媒体でどういう振舞いをするか、どういう文章を書くか、どういう動画にするかによっても与える印象がきっと違うということを考えないといけない。
 だから、大雑把に「どうすればいいか」と考えるよりは、誰に対して、どこから、どういう順番で伝えていくかということを考えたほうがいいのかなとは思います。
 その上で、今回は「ウェブで記事を書く」と決めた場合でも、書き方によっていろんな作用が起き得ると思うので、総合的にどういうプラスマイナスがありそうかをすごい考えます。
 「書く」と言っても、まとまった分量の文章をちゃんと書くということだけではなくて、なにかのニュースをTwitterで140字のコメントを付けて引用する、そのときの書き方の違いによっても、届いてしまう人たちの中に異なる影響があるはずです。
 だから、どんな人にどういう影響があり得るかということは、考えながら書きますね。
 SNSによって社会的な権力を持っている人たちだけが言葉を発信できる時代ではなくなったからこそ、その時代なりのやり方を考えないといけない。

西 言葉の使い方はすごく難しいですね。これは、僕も本当に反省を込めてなんですけども。
 でも本当に、ご著書みたいに、淡々と怒っているという書き方も、勉強しなきゃなと率直に思いました。

望月 それぞれの書き方ごとに目的との関係での良し悪しは絶対あると思います。
 今回の本ではできればたくさんの人に読んでほしいという気持ちがあったので、できるだけ読者を狭めない伝え方ができたらいいなと思っていました。

西 怒りがなくなってしまうのは、すごく問題なのだと思います。これは怒るべき問題なんだっていうこと自体は伝えたい。
 それをどういうテンションで、どういうモードで表明するかって、すごく難しいことで。削られている人たちが声を上げようとしたときに、どうしてもテンションが高過ぎたりすることもあるわけですよね。
 そこで、これが理不尽で、これには怒ってるんだっていうことをどう伝えるかってすごく難しいことだと感じています。
 少なくとも、僕がいるようなアカデミックの内部だと、それをどう表明するかって、なかなか整理できないんです。つまり主観性ではなく客観的な科学であるっていうのが、前提なので、基本的な態度として怒ってることが前面に出ちゃいけない。

望月 なるほど。

西 とはいえ人文的なものやってると、学生も小説やルポなどをたくさん読むのでいわゆる個人的な経験とか、個人的な苦しみみたいなものに対するセンシティビティはすごく上がるんです。
 でも、そうなったときに、それでみんなでちゃんと怒ろうねっていう、ある種の戦略的な表現の仕方とのノウハウがない状況です。

望月 様々な加害、被害関係が複雑に絡み合う中で自分の位置を正しく知ることが大切だと思います。
 ある局面では自分は構造的に加害の位置にいる、同時に別の局面では被害の位置にいる、そういうことがある。
 様々な局面が重なり合っているからこそ、加害の構造から自分を免罪することなく、被害の位置を共有することで他者とつながる可能性が生まれてくる。

西 今、整理していただいて、何となくいろいろヒントをいただいた気がします。ご著書の最後のほうでも出てきましたけど、やっぱり連帯の問題ですよね。

望月 はい。それがどうやったら可能なのかっていうことですよね。

西 問題に目覚めて、温情し続けてもしょうがないし、あるいはずっと被害者の立場で、ずっと私はいじめられてるんだ!も違うので。やっぱり構造ですよね。
 私も連帯って言葉大好きで、最終的には連帯だって言いたいんですけど、現実的に、じゃあどうやって?と言われたら、難しい。
 そのとき、まずは構造を見出して、自分がどこにいて、自分がその構造の中でどこにいるのか認識した上で、じゃあ、あなたはどうするんですか、というところまでいけさえすればいい。

望月 国民国家でも、社会運動でも、10万人とか100万人とかの単位になると、本質的には想像の共同体じゃないですか。だけど、それがただの想像上のものに過ぎないというのはやや語弊があって。
 自分が書いたり情報を出すときに考えているのは、「この社会にはあなたと似た人がいる」、もし出会えるならば手を組んだほうがいい相手がいっぱいいるということなんですね。
 自分の書いたものが、その気づきの触媒の一つになったらという気持ちがあります。
 例えば、技能実習生にしても、孤立してしまっている人はきっとたくさんいる。
 そうした気づきが口頭のコミュニケーションによって得られる場合もあるし、メディア的なコミュニケーションによって得られる場合もある。
 社会の中での自分の位置を知る、自分は大体ここら辺にいて、そこにはこれぐらい同じ人がいるんだと、そういう想像力が結べるといい。
 情報や知識を出していく人たちの役割には、そういうこともあるのかなと思っています。

望月優大(もちづき・ひろき) ニッポン複雑紀行編集長。1985年生まれ。著書に『ふたつの日本:「移民国家」の建前と現実』(講談社現代新書、2019年)。
西 亮太(にし りょうた) 中央大学法学部准教授。ポストコロニアル批評。
難民アートプロジェクト Refugee Art Project
シドニーを拠点にして、芸術家らを中心に2011年に立ち上げられたプロジェクト。シドニー近郊のヴィラウッド移民収容施設を中心に、近隣の難民コミュニティを回りながら、難民や庇護申請者らとともに芸術制作を行っている。今回の連載はこのプロジェクトの協力により可能となった。団体のホームページは現在休止中だが、フェイスブックページは見ることができる。https://www.facebook.com/TheRefugeeArtProject/

雑誌『KOKKO』(こっこう) 第38号

◆堀之内出版ウェブストア(送料無料、Amazon payでの購入が可能です)

画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?