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朝比奈まふゆについて 第二章:どうすれば朝比奈まふゆは「救われる」のか(前編)

 第一章では現実における朝比奈まふゆの立ち位置を考察し、その最後に朝比奈まふゆが意思を持っていない、という前提に立ち議論を行った。しかし、なぜそのように意思がないと言えるかということについては答えを与えなかった。
 第二章ではその問いの答えを与えるところからメインストーリーの考察を始める。そこから、なぜ彼女はニーゴに入ったのか、なぜニーゴからいなくなったのか、そしてどうやって奏達が消えようとする彼女を揺り戻したのか、そしてその先にあるものは何か……この過程について多面的な考察を行い、解釈することを本章最大のテーマとする。ゆえに、この章をニーゴのストーリーの解説だと思って読んで頂いても差し支えない。
 また、あまりに長いので今回は前後編に分けている。前編は「誰よりも消えたがっているくせに」の言葉が印象的なシーンまでを考察する。

※注意:最低限、ニーゴの20話を読了してから読むことを強く推奨する。

☆3前編

2.1 「消えた」過去の自分

 高校生となった朝比奈まふゆにはもはや自分の意思がなくなっていた。しかし、初めから彼女に意思がなかった訳ではなかったということは、既にストーリーを読了した諸氏であれば既知のことであろう。
 幼いころのまふゆは他人から喜ばれることこそを純粋に喜んでいたようだ。テストで100点が取れたよと言えば、親が褒めてくれた。それが嬉しくて、次も頑張るよと言った。微笑ましい光景だ。この時、まふゆはバーチャルシンガー側の第3話からもわかる通り、自分から誰かに喜んでもらうには、仲良くなるにはと能動的に考えていたようである。
 風向きが変わったのはまふゆが中学生の時だった。当時のまふゆはまだ、自分のために他人が喜ぶことが何よりの喜びであると信じていた。だから、親に「看護師になって、多くの人を救いたい」ということを打ち明けた。看護の仕事を通して、他人が喜んでくれるのが本望だったから。しかし、まふゆの両親は看護師ではなく、医師になることを勧めた。

 ところで、医師も看護師と同じく、他人を救う仕事だ。しかし、その2つの職業が持つ意味は根本的に違うのだと私は考えている。そもそも、医師の仕事の本質は施しであって、看護師のような奉仕ではない。もちろん、医師であっても献身的な仕事はするが、医師にはそうした面とは無縁なことで、医師であること自体が「名誉」であるという側面がある。
 医学部はとにかく頭が良くないと入れない。数学でも国語でもなんでも、非常に高いレベルの学力が必要だ。ゆえに、学部入試を突破して国試も受かって医者になれた人間にはそれ相応の「名誉」が与えられるのだ。もちろん、医師の本質が「名誉」であるわけがない。他人に施しをして、救うことこそが医者の本領であるはずだ。しかしそれでもどうしても、我々の側には「お医者様ってのはすごいもんだなあ」という気持ちが出てくるものなのである。

 さて、ここでまふゆがやりたかったことを今一度思い出してほしい。「他人に喜んでもらうこと」だったはずだ。そして、それをするための理想の職業こそ看護師だ、という話である。そこに肩書きというオプションを付けてちやほやされたいなどとはまったく考えていなかったはずだ。しかし、まふゆは今まで自分の成長を喜んでくれた両親からの「医者にならないか」という提案を断ることも出来なかった。だからこそ、まふゆは「お母さんとお父さんが言うんだから、きっとその方がいいんだよね」と思って、看護師の道を断念し、今以上に勉強して医師になることを目指し始めた。

 この瞬間に、まふゆは「自分」をなくした。

 それ以前のまふゆは看護師になる夢を持っていたことからもわかるように、自分から誰かを喜ばせようとする道を志していたはずだ。しかし、それ以降のまふゆはすっかり変わってしまった。誰かが喜んでくれるならそれでいいと、ある意味では他人におもねることばかりを考えるようになってしまった。
 そのくせ、才能も実力も凡人より卓越していたものだから、他人に次々勝手な期待を抱かれてもいた。彼女に「出来ない」ことはそうそうなかったから。そして、それにいちいち脳死で応えようとするループがひとたび出来ると、もはやまふゆ自身の手ではどうしようもなくなってしまう。あの子はなんでも自分たちの言うことを聞いてくれる「いい子」だと周囲から思われれば、まふゆはそうであるように振る舞うしかなくなる。
 そうしてまふゆの自主性が、意思が死んでいく。「君がそう思うならそうなんだろうね」と価値判断を他人に任せ、感想を求められても世間体のためにいつも「面白いね」「おいしいね」と口から出まかせのような言葉が勝手に出てくる。自分から能動的に感じることをすっかり、放棄していたせいで。その代償として、まず彼女の感覚が死んだ。味覚がどんどん薄くなり、美味しいと思っていたはずの母の手料理から味がしなくなり、趣味も気晴らしも何もかも楽しくなくなって、嫌いも好きも分からなくなった。このあたりのことは2.6で補遺的に書いたものがあるので詳しくはそちらを参照していただきたいが、感覚が死ねば、自分の意思が失せる。何がしたかったんだろうってことがどんどん分からなくなって、まふゆの人格が空っぽになっていったのである。これが第一章の最後に与えた「朝比奈まふゆには意思がない」という説の根拠である。
 それに気づいた時、まふゆは自分が一体誰なのか、自分は本当は何がしたかったのか、探しに行こうと決意した。しかし、そこからどうして音楽の道に辿り着いたかということは本編中では明示的に語られていない。中学時代にシンセサイザーを得たということだけしか情報がない。というか、そもそもまふゆにとっては初め、音楽は自分を見つけるためのツールの一つに過ぎなかった可能性すらあるのだ。しかし、最終的にまふゆは自分の「想い」を音楽に託している。その過程を考察するだけの十分な材料は現時点では与えられていないが、それでもまふゆは音楽に賭けていたのだ。
 とはいえ、なくした自分を孤独に探すことが長く苦しく険しい旅であることは想像に難くない。まふゆが本当は「いい子」などではないということは、まふゆしか知らない。だから、たった一人で探すしかない。そしてその道程には成果などなく、時間だけが過ぎ去っていくことへの焦りが増していく。早く自分を探さないといけない。そう思い詰めていくことが彼女を追い詰めていくうちに、彼女は思い始めたのだろう。

 もしも自分が見つからないなら、いっそ消えてしまいたい、と。

救われた気がした

2.2 「消えたい」意思を共有する仲間

 まふゆはなぜ消えることを願ったのだろうか。それはある種、「嘘、偽り、阿りによって出来た『優等生』」の自分しか他人に認めてもらえないことへのやるせなさではなかろうか。本当の自分が何をしたいかなんて分からないけれど、偽りの自分は少なくとも自分が望まない形で他人を喜ばせて、ちやほやされている。そして他人にはそれしか見えないから、本当の自分は見向きもされない。つまり、世界は本当の自分を必要としていないのだろう。そうやって世界が私のことをいらないと言うのなら、私は消えるほかない。だから、いっそ、消えたい……という漠然とした思考の流れがまふゆの中に出来上がっていたのではないかと私は推測する。
 そしてそのような希死念慮はまふゆが「本当の自分」の存在を自覚した頃から運命付けられたものではなかろうか。もちろん、まふゆが大事にしたいのは「本当の自分」であり、偽りの自分などでは断じてない。しかし、「本当の自分」を欲しているのは朝比奈まふゆただ一人であって、周囲の人間は依然として偽りの自分を求める。だったら、本当の自分は、というか自分はいらない人間なのかという気分にもなるはずだ。そのような状況では自己の肯定などできるはずもなく、自分は消えるしかないと思わざるを得なくなる。

 しかしその中でも、まふゆは「本当の自分」を必死に求め続けていた。過去に見失った本当の自分が、きっと、どこかにいる。そう信じて。そうやって音楽を作っていたある日のことだった。まふゆのSNSのアカウントに、突然、アイコンのないフォロワー0の「K」と名乗るアカウントから、「私と一緒に音楽を作らないか」という誘いがやってきた。まふゆは最初、これを「スパムかな?」と思ったようだが、せっかく誘われたのだからと、(これもまふゆが身につけた優等生ムーブの一環だったのかもしれないが)「K」の曲を聴いた。その時まふゆはきっと、こう感じ取ったのではなかろうか。

 「自分」と同じ何かを感じる、と。

 救われたような気がした、のちにまふゆは「K」―――宵崎奏にそう語った。それはどうしてか?という問いに私はこの「仲間意識」だろうという仮説を立てて返そう。この頃の朝比奈まふゆは既に消えたいと願っていたことは既に書いた。では奏はこの頃どうだったか?これからそのあたりの説明を補足する。

 奏は著名な音楽家であった父の元に生まれた。父の作った曲をもとに、若くして亡くなった母が作ったオルゴールが大好きで、それをきっかけに奏は様々な曲を聴くようになり、また、父を真似て作曲を始めてもいた。
 奏が中学の頃、父はCMソングのコンペを受けていた。しかし、クライアントからは「それでは今の時代には古すぎる」ということでリジェクトされることが繰り返されていたようだ。しかし、奏の父にとってはそれこそが仕事であり、自分と奏の生活のためにはなんとしてもクライアントに気に入られる曲を作らざるを得なかった。そこで煮詰まっていた父に奏は声をかけた。そして、父が特に苦心していた部分に対して、「ここ、こうしたらいいんじゃない?」と言って手を加えた。すると、奏の父は驚嘆した。どうやったらこんなメロディが浮かぶんだろう、と。そして、娘には才能があるかもしれない、と――――――
 結果として奏が手を加えた曲はアクセプトされた。仕事も増えた。しかし、一番評価されたのは奏が手を加えた部分で、けっきょく奏の父の手による曲は「古臭い」という評判だった。クライアントもやはり、あのCMソングのような曲を、と求めた。父は「だから無理だと言ってるだろう!」とクライアントに激高することすらあった。奏はそのような状況に陥っていた父を心配して、あるものをプレゼントした。曲である。
 それを聞いた奏の父はやはり娘の才能に驚嘆した。そして、「奏はこれからも、奏の音楽を作り続けるんだよ」と言い、その翌朝、奏の父は倒れた。原因は心因性ストレスだった。記憶が混濁している、ふつうは数日で治るが時間がかかるかもしれない……奏はそう聞いて言葉を失った。
 家に帰った奏は父の机に日記があるのを見つけた。そしてそこには、仕事のことで苦悩していた父の姿があった。そして、奏とは感覚も才能もかけ離れていたように感じた、と―――――――これを見た奏は自分の曲が父を苦しめていたんじゃないか、だとしたらもう曲なんか作らないと自分の作曲用の機材を壊し始めた。しかし、その数時間後、消えたいな、このまま何も食べなければ、楽になれるのかな―――――と思っていた奏はそこに母のオルゴールがあるのを見つけ、それを流した。そこからは、他の曲にはない癒されるような優しい音色が聴こえて、思い出が蘇って――――

 「奏はこれからも、奏の曲を作り続けるんだよ」

 と、言い聞かされたのをそこで思い出したのである。だったら、自分は誰かを救うような曲を作ることを望まれていると、そう感じた奏はその日から、誰かを救えるような曲を作らなくては、と作曲活動に文字通り「全て」を捧げるようになったのである。

 こうして家事代行者としてLeo/needの望月穂波を雇うほどまでに音楽活動に傾注していた奏は個人で作った曲を上げる傍ら、ともに音楽活動を行う仲間を欲していた。ちょうど、まふゆ宜しく、自分が誰かを救えないなら、消えたいと思いながら。その時にまふゆの曲を聴き、そのメロディー、歌詞に惹かれたものがあったのだろう、まふゆを勧誘したという訳である。
 だからこそ、まふゆは奏の誘いに乗ったのだ。奏の曲に救われた気がしたし、奏の傍らにいれば本当の自分が見つかると信じてのことだった。そしてその後、「えななん」こと東雲絵名、「Amia」こと暁山瑞希が加わり、音楽サークル「25時、ナイトコードで。」が始動したというわけである。詳細は後述するが、絵名と瑞希もまた、「消えたい」思いを持っている。

 これでまふゆには仲間が出来た。本当の自分をきっと探せると信じて組んだ仲間だった。しかし、「それだけ」で本当の自分が見つかることはなかった。

誰よりも消えたがっているくせに

2.3 誰もいないセカイ、「OWN」、そして―――

 K、えななん、Amiaの三人を仲間に加え、本当の自分を探す旅を続ける朝比奈まふゆ。ついにその手がかりを発見する!   ……ということにはならなかった。
 ならなかったと書くのは語弊がある。正確には、「そのままでは見つけられなかった」と書くのが正しい。なぜなら、まふゆは偽りの自分に「呪われて」いたからだ。
 まふゆは自分をなくして以来、他人に媚び、好かれるような物言いを勝手にするようになったと書いた。それがここでも発動してしまった。Kはひたすら音楽の話をして、えななんとAmiaはボイスチャット上でも自分の趣味について語ったり、会話して、ときに口論にもなる。まふゆはそこで積極的に話に乗り、喧嘩の仲裁役を買って出たりするように見えていた。実際にはそれらすべてに興味などなく、言葉の上だけで相手の機嫌を取って、そこで「いい子」になっていただけだった。まったくもって、学校で繰り広げていた虚飾の芝居をニーゴに持ち込んでいるだけでしかない。
 それは本人が一番わかっていることだった。どこに行っても、そういう自分が嫌でもついてくるのだ。そして、そうなってしまったからにはKも、えななんも、Amiaも、「いい子」の朝比奈まふゆしか見えなくて、本当の自分が、いい子なんかじゃない、何処かにいるけど何処にも見えない朝比奈まふゆが見えない。それでは、折角その手がかりをつかんだ気がするのに、ますます本当の自分からは遠ざかってしまう。だったら、自分はもうどこに行っても「いい子」にしかなれないの?それだったら、もう、

 私には、ニーゴの「雪」である意味がない。

 そう感じてしまったまふゆは、途端に一人になりたいと思うようになってしまった。本当の自分の存在を知覚するのは、自分だけ。誰もその「本当の自分」を見つけて、理解することはない。いやそれどころか、自分は誰からも、誰にでも優しくて、なんでも言うことを聞いてくれて、期待に応えてくれる。そんな「いい子」の、偽りの「朝比奈まふゆ」としてしか理解されていない。そのような屈辱はもうたくさんだ。だったら、もういっそ、一人になりたい。孤独になりたい。孤独のままで音楽活動を続け、自分を見つける。それでももし、自分が見つからなければ――――私は消えよう。きっとそのように考えていたのだろう。
 その時だった。そのような「想い」を抱いていた朝比奈まふゆに、一人の少女が手を差し伸べた。ミクだ。まふゆの「一人になりたい」という想いから、「誰もいないセカイ」が生まれた。ミクはその水先案内役であり、まふゆをそこまで招待した。ミクはそのように語った。説明されてもよくわからないようなことだが、まふゆは一人になれる環境が、一人で集中して作業できる環境があるなら有難いと、その誘いに乗った。

 さて、ここで疑問になることが「セカイ」とは何か?ということだ。これについて少しだけ補足的な話をする。いらない人はこの段落は読み飛ばしてほしい。まず、プロセカの世界ではバーチャルシンガーが我々の生きる世界にも増して人気で、人々の心を掴んでいる。そして、バーチャルシンガーはただクリエイターの作った曲を歌うだけじゃなくて、そのままではどうにもならない想いを抱えた人々に手を差し伸べ、「セカイ」という明晰夢にも似た場を作り出し、願いを叶える手伝いをする。だから、この世界ではバーチャルシンガーは神ではないが、ある意味では天使に似た仕事をする。そして、彼ら彼女らに誘われた人々がそこから、願いをかなえようとするのだ。
 それでも突飛すぎて分からない人へ。物理学者の仕事を思い出してほしい。読者の多くは中学を卒業して高校に入ったあと、物理の教科書が数式だらけで、大勢に同じく唖然として敬遠したか、それとも私のように感動してその道に迷い込んでしまったかのどちらかだと思う。じゃあなぜ、物理の教科書はあんなに数式だらけなのか?それは「理想化」のためである。現実における物体の挙動は人の心ほどじゃないにせよ複雑怪奇だ。それをそのまま扱うなどとんでもない。だからその複雑さを取り除いてやらないといけない。そのための強力な道具として数式が存在するのだ。ニュートンの研究に始まった古典物理学は物体の挙動を程よく単純化し、数式に変換し、それをもとにした「理想化された世界」を構築して、当時急速に進歩していた微分積分や線形代数の知識を用いてその動きをそれ以前には考えられない程効率的に追うことを可能にした。そうした蓄積がなければ我々が今享受している、ちょっとした指先の動きだけで家に欲しい物が届くような時間効率の素晴らしい悠々自適な生活など、とても出来ない。そのための全ての根源が数式による「理想化」であり、これが物理学者の仕事なのである。
 ミク達バーチャルシンガーの仕事はそれに全く等しい。その本質はセカイという招待された人間のために拵えた、彼・彼女の思い通りになる舞台装置を提供して、願いを叶えることをはるかに容易にするという「理想化」なのだ。

 かくして、その「理想化」されたセカイにおいてまふゆは今度こそ本当の自分を見つけるためにと早速、「OWN」という偽名を用いてソロで音楽活動を始めるに至った。つまり、まふゆはそこで、一人で音楽活動さえすればいつか本当の自分に出会えると信じ込んでいたわけだ。
 しかし、ミクは初めからそのようなことは意図していなかった。のちに彼女本人が語ったことだが、ミクはあえてそこで「空っぽ」で未完成な空間を用意していた。それはなぜか?それはそもそもまふゆが本当は「一人になりたい」ことを意図していなかったためであるという。どういうことだ、さっきと話が違うじゃないかとなるだろう。だから、まふゆが「一人になりたい」と思ったそもそもの理由を思い出してほしい。

 本当の自分の存在を知覚するのは、自分だけ。誰もその「本当の自分」を見つけて、理解することはない。いやそれどころか、自分は誰からも、誰にでも優しくて、なんでも言うことを聞いてくれて、期待に応えてくれる。そんな「いい子」の、偽りの「朝比奈まふゆ」としてしか理解されていない。そのような屈辱はもうたくさんだ。

 これはさっき私がまふゆの思考をもとに書いたことだが、本質は今しがた太字にしたところにこそある。誰も本当の自分を理解しないことが問題なのである。だからミクははじめから、「一人になりたい」などではなく、その裏返しである「本当の自分の存在を理解してくれる人がいてほしい」という望みをこそ叶えさせようとしている、と解釈するのが正しくなる。詳細は後編になれば全て分かることである。

 ここから話をさらに2週間進める。朝比奈まふゆが「OWN」として活動を開始、最初の曲を投稿した丁度2週間後に、えななんが「OWN」の存在を知って、ニーゴのチャットで紹介したのである。えななんからは2週間前に彗星の如く現れ、投稿した曲はすべて20万再生を数える天才クリエイターとして説明され、Amiaもその世界観に圧倒され、もちろん、その張本人である「雪」もそれに賛同したのである。……もちろん、その賛同もブラフでしかないが。
 えななんとAmiaが眠気を理由にナイトコードから退室したのち、Kはまふゆとともに「OWN」の曲を聴いた。すると、Kはその曲が「まふゆの曲に似ている」と感じた。そして、「これ、雪が作ったんじゃないの?」と訊いた。自分が「OWN」であると知られたくなかったまふゆはそれを頑なに否定したが、この時にはKに対して「私、Kの曲に救われた気がしたんだ」とも語り、奏は「自分の曲で他人を救えているんだ」と安心しきっていた。
 しかし、それこそがまふゆによる「決別」の言葉ではなかったか。救われたのではなくて、救われた気になっただけ。結局、Kの曲では足りなかった。だから、自らはもはや「雪」である必要がない。これをあらかじめあまりに遠回しに伝えていた、そうではなかろうか?そうやって、Kがまふゆこそ「OWN」ではないかと思うならば一人で「本当の自分」を見つけようとする上でKは邪魔な存在だということになる。だから、もうそこが切り時だろうと見た、とするのが自然だ。
 しかし、それだけがそう語る理由ではないだろう。例え自らを見つけるに足りなかったとしても、まふゆにとってKは特別であるからだ。だから、自分と同じ「何か」を持っている人間にここまでのシンパシーを感じて、ついていこうとしたのだから、せめてお別れをしなくてはならない、とまふゆが考えたのではないかという観点に私は立ちたい。もちろん、それもあまり本気のものとは言い難い、どこまでが嘘でどこまでが本当なのか判断しがたいようなあやふやなものなのだが……それでも私はそれがKへの本心からの餞別の言葉であると信じたい。なぜなら、本当にその情念すらない程朝比奈まふゆが冷め切った人間なら、もうそのまま彼女は戻ってこないだろうから。

 それから間もなく、まふゆはナイトコードにログインしなくなった。それから一週間が経つと、えななんとAmiaはいなくなった「雪」を心配し始めた。その一方、Kはというとその後も増えていったOWNの曲を漁り続けていた。そして、それを聴くたびに、「これはまふゆだ」と感じていた。ニーゴで作っていた曲とは傾向が違うが、それでもまふゆの曲に特有の何かを感じているから。そしてそれがK、宵崎奏によって見つけ出された朝比奈まふゆの本当の姿であるとわかるのは後になって分かる話なのでここの詳細は後編に任せる。
 話を戻す。時はまふゆが消えた一週間後である。雪が消えた後のニーゴの共有フォルダに、なぜか最終更新日時が雪の消えた日になっているファイルが入っていた。そしてそのタイトルは「Untitled(アンタイトル)」で、音楽ファイルの形式を取っていた。そして、その不審なファイルを3人が再生したそのとき、彼女らは不思議な光に包まれた。

 ミクの手によって、「セカイ」に招待されたのである。

 セカイに招待された彼女らは初めて、互いの顔を見て、本名を知る。すると、彼女らを呼んだ張本人であるミクが現れて、事の子細をあまり語りはせず、「早くあの子を救って」と彼女らに語った。
 このなかでKだけはこの世界に心当たりがあった。丁度まふゆがセカイに招待されたころ、それとは別にKもまた、同じセカイに一度招待されていた。要件はとにかく、「早くあの子を救って、もう時間がない」ということ。あの子って誰だと、その時口にした疑問とまったく同じ疑問を持っていると、その向こうから、セカイが騒がしいと、誰かがやってきた。

 これこそ、「朝比奈まふゆ」である。

 そこにいたまふゆはK、えななん、Amiaが知る「雪」とは全く異なる別人のような存在になっていた。というより、ここで初めて、「いい子」ではない、愛想が悪く、何者をも拒絶するような危ない雰囲気に包まれたまふゆが現れたのである。これこそがこの「誰もいないセカイ」の効能であるとすれば、それこそがミクの思惑そのものである。前後編で切ってしまったせいでまたしても説明できないのが申し訳ない。とにかく後編を待たれたい。
 まふゆはそこで、自らはこの不気味な世界から帰れなくなっているんじゃないかと心配される。しかし、まふゆは「うるさい。このセカイに来ないで、一人にさせて」と不愛想に言い放ち、えななんとAmiaを拒絶し、困惑させる。しかし、Kはこの時既に雪=OWNであるとの確証を(根拠はないにせよ)得ていたので、逆に、そうやってOWNとして孤独にやっていきたいのかと問いかける。後の2人は驚くものの、そこでまふゆは自らがOWNであることを明かす。するとえななんはどうしてそれを言ってくれなかったのかと尋ねる。すると、まふゆはここで「別に?言う必要がないから言わなかっただけ」と言い、そして、「雪じゃない私は、あなたと話したいことなんてないから」と、完全にえななんのことを拒絶してしまったのである。これがえななんの地雷を踏むのである。食って掛かろうとするえななんをAmiaがなだめようと仲裁に入るも、まふゆはえななんを激昂させたその舌の根も乾かぬうちに、「私はもう、ニーゴにいる必要がない」と言ってのける。そして、Kには以下のことを伝えたのである。

足りなかった

 Kはまふゆを救えなかったのである。

 その直後、えななん、Amia、Kはまふゆの指示を受けたミクの手によってセカイから弾き出されることになる。しかし、ミクは最後、Kを追い出す際にKに、「まふゆを救えるのは、あなたしかいない」と言うのだ。それはなぜだろうか?その理由が、あまりに長くなって再掲になってしまうが、以下のセリフに詰まっている。

誰よりも消えたがっているくせに

 この3人が「誰よりも消えたがっている」ということが、その先まふゆを救うための鍵になるのである。《後編に続く》





おまけ

 ニーゴのストーリーを読んでいて、難解なもんだなあ、わかりにくいなあ、でも泣けるんだよなあと感じた読者は多いだろう。私もその一人であり、このストーリーはとにかく難しいのである。それでも、その大枠として、まふゆの「本当の自分」を奏が見つけるまでの流れ方が綺麗だから、なんとなくでも泣けるのだ。
 しかし、本当になんとなくで構わないか?というある意味めんどくさい感情が今回この考察を書いた原動力になっているなと感じる。こういうのは全部因果関係を明らかにしてすっきりさせないと気が済まない。そして何より、それを見つける過程にこそ味があると感じる。だからこうやって、こんなにも長い、しかもまだ終わる気配のない考察をまふゆのことを想って泣きながら書いていると言えば大層気持ち悪がられよう。
 でもそれがオタクの仕事でもあるような気がする。そしてそこに、香辛料程度の論理性を加えれば、なんとなく学問的になるのではと感じる。うーん、自分でもちょっと何言ってるか分からない。

 意見があればぜひコメントを書くか、筆者のTwitterに凸をしてほしい。必ず読む。それと後編の更新もかなり待たせることになるが、是非待っていてほしい。

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