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朝比奈まふゆについて 第二章補遺①:朝比奈まふゆの感情と「不自由なマリオネット」

 第二章の2.1から2.5まではメインストーリーを取り扱ったが、この補遺では第二章の続き、2.6節としてイベント「囚われのマリオネット」のストーリーを扱い、朝比奈まふゆの感情について考える。2.5までの内容に対して修正・補足を加えながら、そこであまり詳しく扱えなかった朝比奈まふゆの感情についてより詳しく切り込み、2.5にて示した結論への道筋を検討する。一応、それらの文章は読まなくても、この文章を読むだけで理解はできるので、私が過去に書いた文章を全て読む必要はない。

☆4特訓前

2.6.1 ストーリーのおさらい

 まず全体のストーリーを振り返る。奏はまふゆの音をOWNの曲から「見つけた」つもりが、ニーゴ復帰後の雪は奏の曲に対し何を感じたのか「わからない」というばかりで、奏はまふゆのことがよく見えなくなった、と危機感を募らせ、このままではまふゆを救えない、救えなければ自分の生きる意味がないと焦る(この理由は2.5で既に説明済み)。そこで、奏はまふゆを救う曲を作るため、まふゆが「何を感じるか」を追い求め始める。
 その折、奏は家事代行アルバイターとして呼んでいた穂波から、「人形展のチケットが余ってるからいらないか」と言われ、折角だからと、まあ自分は行く気になれないが絵名と瑞希あたりは楽しんでくれるだろうという思いで受け取る。その後この話を絵名・瑞希にすると、瑞希が「せっかくだから奏とまふゆも行こう」と誘う。そして、4人は全員の都合の合う土曜の午後に人形展に行くのである。
 ここでひとつ。まふゆは人形展の前に予備校に行かなくてはならないので、母に予備校に行ってから、知り合いと人形を見に行くと言ったら、その母は「人形より絵画の方が教養も感性も深まるからいい」と言うのである。まふゆはそこでまた今度にしよう、と逃げたが、その本心は「人形でも絵画でも、どうせ何を見たって何も感じないんだろう」という諦めである。

 しかし、実際にまふゆは何も感じなかったわけではなかった。華美な人形たちに瑞希や絵名が魅了されるなか、何が楽しいんだろうと思いながら、お手洗いに行ってくるとその場をいったん離れた。しかし、その途中に目に留まったのは、マリオネット。糸で吊らされた、操り人形だ。そして、それを見ているうちに、何かを感じた。それが何か―――と言う前に、「本当にあなたはいい子ね」とまふゆに語り掛ける誰かの姿が脳裏に浮かび、そのまま気分が悪くなってしまった。そこを奏、絵名、瑞希が見つけて、その後なんとか持ち直すが、送っていこうという誘いにも乗らず、そのまま一人で帰ってしまった。一方、奏はここでまふゆの感情が揺れ動いたとみて、その正体を探ろうとした。流石にまふゆの状態がすぐれないので帰らせざるを得なかったが、奏は「まふゆがマリオネットに何を思ったか」が気になって仕方がない。
 そこで、セカイを訪れると、ミクはあやとりをしていた。退屈を紛らわすやり方として瑞希に教わったという。そして、ミクはまふゆが何を感じているかまでは分からないとしつつも、奏と一緒に考えることはできるという。すると、マリオネットの話をしたときに、ミクは「その子はまふゆに似てたのかも」と話す。そしてその類似の本質は、置かれた環境の不自由さである。
 その夜にまふゆは不思議な夢を見る。自分があの人形展の人形になってしまう夢だ。そこでまふゆはまさしく今回追加された☆4特訓後の姿のような実物大のマリオネットとなって、その場に動かず、糸に繰られて操られた、自分では動けない状態になる。そこに、絵名と瑞希が出てきて、瑞希はそれを動かそうと触れようとするも、絵名は「やめなよ。高そうだから」と引き留める。体が動かないのはそういうわけか、とまふゆはそこで思う。しかし、「別にいいか。人形になっても。何もしなくていいし、何も考えなくていい、自分なんてもの探さなくても、言われるまま動いていればいい」と考え、それでみんな喜んでくれるという、また一つの諦めの境地に達する。すると、そこに奏が現れて、まふゆに今何を感じているかを聞いてくる。しかし、「私は感じられない、それに私が感じたってそんなの誰も――」、と拒絶する。それでも、奏はまふゆに感じていることを聞きたがる――――
 ここでまふゆは夢魔から醒める。そして、通話しているKに「人形になった夢を見た」と語る。その内容は「覚えていない」が。そしてKはここでも夢の中と同じことをして、まふゆはそれに「毎日生きてるはずなのに楽しいことも嬉しいことも感じられない、全部他人事みたい、でも何かが決定的に足りてないことだけが分かって……こんなの、言葉になんてできない」と返したのである。こっちの方がより、まふゆがずっと抱き続けている難題に沿った言葉である。そして、Kは「歌詞ならどうか」と雪に言う。説明はいらないし、理解もしなくていいから、と。
 KはまふゆがOWNとして書いた曲の歌詞には何か、まふゆの感じてたものが読み取れた、だからああいう歌詞なら雪に近づけそうなんだと言った。それに対しまふゆは「心の中からわいてくるグチャグチャしたものが勝手に出てきた」のだから自分でそれは再現しようがない、と返す。しかし、ここでKはミクが言っていた「その子はまふゆに似ていた」という言葉を思い出し、マリオネットを見た時に感じたものを書いてくれ、と言う。雪はきっと、マリオネットに自分を重ねていたから、それなら手がかりがつかめそうだというのが理由だ。そして、雪はそれに「どんなものになるかは分からないけど」と言いながら、一応了承する。
 しかし、まふゆはその時のことを思い出せなくなっており、わからない。わからないことが負の感情を生み、このままじゃ、前と同じようになってしまうと思ってしまう。そこで、まふゆは駆け込み寺的にセカイを訪れる。
 ミクは「奏が前に来ていた」と言い、奏はまふゆの感じていることを知りたがっているという。しかし、まふゆは「そんなもの知ってもどうにもならないのに、こんな、不快で、痛くて、何の役にも立たないもの、いらないのに」とそれを拒絶するように語る。ところが、実際にはこの感情の全てが「朝比奈まふゆ」であり、奏はそれを求めているのだということがミクから知らされる。
 そしてセカイには、まふゆが見たマリオネットがあった。しかし、そのマリオネットに操り糸はなく、ミクがそれを取っ払ってあやとりにしていた。そして、糸は不思議なものだ、結んで繋いで人形を操ることだってできるのに、いろんな形にもなれる、と言う。その糸を切られたマリオネットはもはやそう呼べる代物ではないが、自由である。この自由なマリオネットを見たまふゆはきっと、胸がすくような思いがしたのだろう。口もふさがれて、操られてるのが嫌とも言えない人生を、逸脱することだってできるのではないかと思ったのだろう。
 その中で歌詞が出来た。「生き生きとしている」歌詞である。そこに奏が曲をつけると、まふゆの中で、「よく分からないけど、心地よい胸の痛み」がした。それが、まふゆにとってはいつぶりか分からない、新鮮な感情として現れたのである。ここは後からもう一回見返そう。
 そして、ここでKは「雪は『楽しい』とか『嬉しい』とかを感じられないって思っているだけだ」と言った。そして、その言葉をきっかけに、まふゆにそうした感情を取り戻すため、素直に思ったことをまずは「出させる」という一種のリハビリのような試みが始まるのである。そのせいで早速絵名が切れ散らかすなどやっぱりこのユニットにはいろいろあるが、ともかくここでまふゆが感情を取り戻すことが一つの方向性として位置づけられることになる。とりあえず、この場面は後でもう一回見るので今ここで細かい説明はしないことにする。

嫌も不快も全部まふゆ

2.6.2 感情の分化

 では、ここで本題に入ろう。朝比奈まふゆの感情についてである。最初に考えるべきは、自分では「どうせ何も感じない」と思っていたのに、マリオネットには「気持ち悪い」と感じたこと。それが感じられるのだからきっと「嬉しい」「楽しい」も感じられるよ、というのが奏の辿り着いた結論だったのだが、そこでまふゆが感じた「気持ち悪い」って何か?これを最初に考える。
 というわけで、ここで人間の負の感情に何があるかを見てみよう。読者諸氏にも、いろいろ、挙げてもらいたい。嫌い?悲しみ?怒り?放心?恐怖?軽蔑?拒絶?それとも……絶望?少なくとも、「正の感情」よりかは、よっぽどよく浮かぶのではないか?まあそれもそのはず、人間は正の感情よりも負の感情のほうがよっぽど多い。まずそのことを理解して頂くために、次の画像を見てもらいたい。

赤ちゃん感情

 これは厚生労働省が作成したパンフレットに存在する、赤ちゃんの「情緒の分化」を示した系統樹であり、国がこの考えを採用しているくらいだし現代ではおおよそこの流れで人は感情を次々に得ていく、というのが定説になっているぞ。ばぶばぶ。
 生まれたての乳飲み児には「興奮」しかない。感情など、全て脳の電気信号の所作でしかないと言えばまあよほどの反科学主義者以外、首肯するであろうが感情が興奮だけであればその電気信号の所作はもっとも簡単で、これに関しては完全に「0」と「1」しかない。えっちい絵を見れば「興奮」のスイッチが入る。そこによもや0や1で表現出来ないものはないだろう。その主張、量的に考えてどうなんだと言われても、たくさんそのスイッチを入れれば、「やっべえめちゃくちゃ興奮した」ということになるんだし、それだけのことであると思う。ちなみに、赤ちゃんは親の顔を見て「興奮」して泣くんだぜ。……自分が通って来た道とはいえ、ちょっと気持ち悪くないか?
 いやそんなことはどうでもいい。次だ。感情の電気回路が複雑怪奇になるのはここからである。生後三か月、新たに「快」と「不快」の感情が生まれる。言い換えれば「気持ちいい」と「気持ち悪い」……あっ、ここでさっきの質問の答えが出てしまった。つまり、人形への気持ち悪いという気持ちの正体は「不快」だ。こんな感情はもう生後三か月もすれば出来るのである。もちろん、人形への気持ち悪さには「不快」以外の様々な要素が複合的に含まれており、それを無理やり全部「不快」に還元するのは不可能だが、その核心がとにかく「不快」であることだけ理解して頂きたい。
 そしたら、その先、生後六か月のところを見てほしい。不快から「怒り」「嫌忌」「恐れ」が分岐する。一方で快からは何も生まれてこない。そう、もうこの時点で人間の感情は正より負の方が豊富に存在するのである。一応、このあと快からも様々な感情は分岐するが、最終的には以下のようになる、とか言われている。

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 5歳の段階でも、負の感情のバリエーションは正の感情を上回る。ここにある負の感情だけで、9つもあり、そして何より、それらは全て「不快」から分化していくことが大きい。つまりまふゆが人形によって植え付けられた不快と云う感情は、まふゆにとってそれだけ「強い」ものなのだ。しかし、不快がそれだけ強いなら、快はそれ相応に強い代物なのでは?と思うはずである。しかし、これは少なくともまふゆの場合は異なる。まふゆの中では、「不快」は「快」に対してあまりにも優勢過ぎる。それと同時に、「何も感じない」という思い込みは、そうした「快」の欠落が生んだ錯覚である。そして、その非対称の原因はこの図にはない。
 では何が、まふゆに対して作用しているのか。その正体は、じつは「愛されているかどうか」である。そして、結論から言えば、まふゆは……

 残念ながら、愛されていなかったのである。少なくとも、奏たちに出会う前は―――

2.6.3 「悔やむ」と書いたミライ

 ではなぜ、まふゆは「愛されなかった」と言えるのだろうか?むしろ、一見してまふゆは周囲に愛されていそうなキャラクターではないか?と思うだろう。だって、親からも、友達からも、ニーゴのメンバーからも、頼られて、好かれていたじゃないか。それなら、まふゆが「愛されなかった」なんて言えるわけがない、と思うのも無理はない。しかし、そうやって「好かれること」が「愛されること」であるという認識は、甘い。甘すぎる。ここで、フランスの小説家、フランソワーズ・サガンの言葉を引用する。

 Aimer, ce n'est pas seulement aimer bien, c'est surtout comprendre.

これは日本語にすると、「愛することとは、ただただ好きになることではない、とにかくわかってあげることだ」という意味になる。つまり、まふゆはただ「好かれて」いただけ。「わかられて」なんかいなかったのである。
 もう一度さっきの情緒の分化の話をすれば、実は快から分岐する感情で最も大切なのが「愛されること」で、不快から分岐する最も絶対値の大きい負の感情が「愛されないこと」なのである。つまり、朝比奈まふゆは本当の意味で「愛されていない」ので、負の感情がどこまでも強いのである。

 ここでさらに下の画像を見て欲しい。これは「プルチックの感情の輪」と呼ばれる。

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 この図において、対極の感情は同時に併存できない、と言われている。すると、「愛」の対極には「後悔」が存在することに気付くだろう。愛されることのないまふゆには、当然「愛する」も欠落する。その感覚を知り得ないから。そして、愛されない身体が、空虚な入れ物のように見えた時、まふゆはそれが自分であることを激しく否定するようになったのである。まあ、これが朝比奈まふゆに自分を「探させている」根源であろう。そして、空虚な入れ物状態になった自分が通った跡が、欠落した愛の対極で強まった「後悔」のあまりそれを連れてきた「不快」の感情に身体を支配されてしまったせいで見苦しく見えて、あの人形展でのショック症状のような事態が起こったのだから。だから、そんな「これじゃない」自分を逃れようとして、「本当の自分」を探しに行った。そう考えても良さそうなものである。
 ただし、元々の朝比奈まふゆはそういう人間ではない。これも重要である。むしろ、元の朝比奈まふゆに一番強かった感情は「愛」なのである。なにせ、まわりの役に立つことは「喜び」で、周囲の人間すべての役に立とうとする意味で周囲を「容認」していたのだから。しかし、それがいつの間にか、反転したことは涙を流すべき悲しい事実なのである。この事の顛末は2.1にて示したのでそちらを参照されたいが、ここで大事なのは「誰も悪くない」ということである。確かにまふゆの親もナチュラルに自分の意見を押し付けるきらいのある「毒親」だが、少なくともそれは悪意によるものではない。本人はいいと思ってやっている。まふゆの友達も同じだ。何でもできるまふゆのことを立派だと思ってるし、頼っている。そこに悪意はないだろう。そして、まふゆ本人も、「こうすればみんな喜んでくれる」と思って、周囲の意見を聞いて……ということだ。しかしこの結果、まふゆは「いい子」の仮面をつけて、周囲の言う通りにしか動けないマリオネットになり、その中で持っていた本心は誰にも理解されずに、本当の意味で愛されなくなってしまったまふゆは「不快」、そして「後悔」の感情に支配され、本当の自分を(探したってないのに)探して、あれも違う、これも違うと絶望して、もうどうしようもないんだと死への羨望に駆られて、なのにそれでも「いい子」をやめられない、それがゆえに死ぬことも出来ない……そんな不幸の連鎖に陥ってしまったのである。まさしく、絶望への道は善意で舗装されている。本物の悲劇に、悪役はいないのである。
 メインストーリー、そしてイベントストーリー「囚われのマリオネット」はそんなまふゆを救うための、不幸の連鎖を断つための物語だ。そして、この不幸の連鎖を断つための方法は、たった一つ。c'est surtout comprendre......とにかく、分かってあげることだ。

2.6.4 初めての気持ちに「おかえり」を

 なら、具体的にまふゆを分かってあげる方法が何なのか?それを念頭に入れてもう一度ストーリーを読むとすぐ、「まふゆの感情を知る」という結論に行き着く。そして、奏はまふゆの感情を知るために、まふゆに歌詞を書かせた。そして、まふゆは歌詞を書く過程でミクと語らい、まふゆが「不快で、痛くて、何の役にも立たないもの」と言ったものこそが朝比奈まふゆであるとミクは語った。
 ここで、2.5で書いたことのおさらいをするが、「本当の自分は探したってどこにもいない」というのが通説となっていて、ならそれはどこにあるかというと、今、この、自分自身であるというのである。だから、そうやって、「不快」「後悔」「消えたい」という思いに駆られるまふゆこそ、本当の自分に他ならない。そして、それが朝比奈まふゆであることを、理解すること。それが朝比奈まふゆを愛することに他ならない。
 とにかく、そこにいる、偽りのない朝比奈まふゆを、それを全て朝比奈まふゆであるとして見る。それが朝比奈まふゆを愛することになり、そして、その歌詞を書いて以来、誰にだって言えなかった素直な感情をニーゴの面々の前で頑張って吐き出すようになったまふゆを、奏が、絵名が、瑞希が、まさしく朝比奈まふゆそのものであるとして受け止めることで、まふゆはこのとき、はじめて、「愛されている」という感情を知るのである。つまり、☆4まふゆのスキル名である「初めての気持ち」は、「愛されている」という最大の快の感情に他ならないのである。
 もちろん、これは初めてとは言えない。より正確に言えば、「おかえり」だ。幼少期のまふゆにとって、一番大切な感情だったはずなのに、ずっと、心の奥底で、忘れ去られていたのだから。そして、それは「よく分からないけど、心地よい胸の痛み」だ。本当の自分はそこにいる。マリオネットを縛っていた糸はその瞬間に断たれて、まふゆは新たな「自由」を手にする。そして、そうやって快の感情を少しでも取り戻していくことが、朝比奈まふゆに、「今、ここにいる自分」を肯定させ、本当の自分を見つけ出すための道になるのである。







おまけ

 今回の☆4まふゆのサイドストーリー後編に、とても気になる問いがあった。「一番大事な感情を欠落した自分は、どんな自分になるのか?」……ほかでもない、朝比奈まふゆが立てた問いだ。ここではおりゃん民への配慮はまずしないので絵名の解答を書くが、絵名は「もし『悔しい』という気持ちがなかったら、自分は別の『東雲絵名』になって、ここに来ることはなかった」と返したのである。感情とは、そうやって人を作るのだ。そんな質問をしたまふゆだって、「不快」という感情がなければ、まず、こうはならないだろうな。
 さて、ここで皆に考えて欲しいことがある。それは、「じゃあ、お前はどうなんだ?」って話。

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 もう一度、この図を見て欲しい。Twitterに浮上したFF内の人間にも聞いたのだが、まず、「この中でどの感情が一番強い?」という質問に答えてほしい。……わからない?では、ちょっとしたヒント。「ここに書いてある感情の中で、どの感情を一番抱きにくいか」をまず見てから、その反対側の感情を見ると、割とすぐに出る。
 ……さて、どうなった?私はこの中だと「軽蔑」が一番強い感情だと感じた。「服従」とか、抱かないし、抱く理由もないから。そして、他者への軽蔑の念を禁じる理由も、自分にはない。結果として、99%の人間は軽蔑することになり、そこに自分もバッチリ含まれてしまっているのである。自分でも見ていて至らない点がどんどん見つかるから……ね。そして、そこにいない1%のうちの一人が「朝比奈まふゆ」だってことも書いておく。
 読者諸氏はどうだろうか?「攻撃」?「拒絶」?それとも、「後悔」?とりあえずここで「楽観」だの「愛」だの言える奴、やべえよ。まあそれはともかくとして、元の命題にそろそろ移行しよう。

 もし、その感情をなくしたら、あなたはどうなりますか?

 今回も感想や批判はここでもTwitterでも受け付ける。必ず読む。なんなら自分で探しに行ってる。それじゃ。


図の参照先


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