「雪解けの頃、君を思う」



春の訪れが近づいていた。まだ寒さの残る3月の朝、圭介は街外れのカフェに足を運んでいた。ここは彼と沙織が初めてデートをした場所だった。外は小雨が降り続き、どこか寂しげな風景が広がっている。だが、店内の窓際の席から見える庭の桜の木は、蕾をつけ始め、もうすぐその満開の姿を見せるだろう。

圭介はカフェラテを前に、ぼんやりと目の前の景色を眺めていた。カップから立ち上る湯気に目を細めながら、彼の頭の中には沙織との思い出が浮かび上がっていた。


沙織との出会いは、大学2年の秋だった。キャンパスの一角にある図書館で、圭介が本を探していると、隣で本棚に手を伸ばしていた彼女と偶然手が触れたのが始まりだった。

「ごめんね、どうぞ先に取って」と、少し照れた様子で笑う彼女に、圭介もつられて微笑んだ。

その日は短い会話で終わったが、それからしばらくして、二人は大学のサークル活動で再会した。偶然の再会は、やがて必然のように二人の距離を縮めた。サークルの活動後に一緒にご飯を食べたり、週末にはカフェ巡りをしたりと、何気ない日常を共に過ごすうちに、圭介は次第に彼女に強い感情を抱くようになった。

冬の終わり、彼は意を決して彼女をデートに誘った。緊張しながらも、彼の思いを告げると、沙織は驚いたような表情を見せた後、優しく微笑んだ。

「実は、私も圭介くんのことをずっと気になってたんだよ」

その瞬間、圭介の胸の中に一気に温かさが広がった。


交際が始まってから、二人は多くの時間を共有した。季節が巡るたびに、桜の下を歩き、夏の海へと出かけ、秋には紅葉狩りを楽しんだ。冬の夜には、手を繋いで凍えるような寒さの中を歩いたが、それさえも二人には心地よいものだった。

しかし、そんな穏やかな日々が突然終わりを告げたのは、沙織が急に倒れた日だった。


その日、彼女はいつものように笑顔で圭介に会いに来た。しかし、食事をしている最中に、突然顔をしかめ、胸を押さえて倒れたのだ。圭介は何が起こったのかわからず、すぐに救急車を呼んだが、心臓の病だと告げられるまで、事態の深刻さを理解できなかった。

病院での検査の結果、沙織は重い心臓の病を抱えており、手術が必要だということがわかった。彼女自身もその事実を知らなかったらしく、突然の宣告にショックを受けていた。

「大丈夫だよ、僕がついてる。手術を受けて、また元気になろう」と、圭介は必死に彼女を励ました。しかし、沙織は不安な表情を隠せなかった。

「もし、私が元気にならなかったら…どうする?」と、彼女は弱々しい声でつぶやいた。

「そんなこと言うなよ。元気になるって、信じてるから」と圭介は強く言い返したものの、彼の心の中にも恐れがあった。


手術の日が近づくにつれ、沙織の体調は次第に悪化していった。入院してからも、彼女は頻繁に呼吸困難を訴え、病室での生活が続いた。

「私、もう無理かもしれないって思うことがあるんだ」と、ある日沙織はぽつりとつぶやいた。「でもね、圭介くんと過ごした時間が私にとって一番幸せだった。それだけは、忘れたくないし、忘れてほしくない」

圭介は涙をこらえながら「そんなこと言うなよ、絶対に元気になって、また桜の季節に一緒に花見に行こうって約束しただろ?」と声を震わせた。

沙織は微笑みながら、「うん、そうだね」と頷いたが、その笑顔にはどこか儚さが漂っていた。


そして、手術の日が訪れた。圭介は病院の待合室でただ祈り続けた。しかし、結果は圭介が望んでいたものとは違っていた。

手術は成功したものの、沙織の体はすでに限界に近づいていた。医師から告げられたのは「いつまで持つかわからない」という現実だった。

それから、沙織は病室での静かな日々を過ごした。圭介は毎日のように彼女のもとを訪れ、手を握りしめながら話を続けた。彼女の声は次第に弱くなり、話すことも難しくなっていった。

そして、ある夜、沙織は静かに息を引き取った。


圭介は沙織が亡くなってからも、彼女との思い出を胸に抱き続けていた。彼女が去った後、残されたのは彼女の笑顔と、彼女が最後に書いた手紙だった。

その手紙は、沙織が亡くなる数日前に彼の枕元に置いていったものだった。圭介はそれを読むのを恐れていたが、彼女がいなくなって数週間後、ようやく手紙を開いた。


手紙

「圭介くんへ、

これを読んでいる頃、私はもうこの世界にはいないかもしれないね。でも、最後にどうしても伝えたいことがあるんだ。

私たちが一緒に過ごした時間は、本当に宝物だったよ。毎日が楽しくて、笑顔でいられたのは圭介くんのおかげだよ。

でも、私が去った後も、どうか前を向いて生きてほしい。私はずっと圭介くんの幸せを願っている。新しい季節が来るたびに、私は桜の下で笑っているから。

どうか、私を忘れないで。でも、ちゃんと自分の幸せを追いかけてね。

愛してるよ。

沙織」


圭介はその手紙を読み終わった後、涙を堪えることができなかった。彼女が最後まで彼のことを思い続け、彼に幸せを託していたことが、痛いほど伝わってきた。

彼女がいなくなっても、圭介は彼女との思い出を胸に生き続けることを決意した。沙織が願った通り、新しい季節が来るたびに、彼は桜の下で彼女の笑顔を思い出すだろう。

そして、いつかまた、桜の花が満開になる頃、彼は彼女と過ごした時間に感謝しながら前を向いて歩き続けることを心に誓った。


終わり

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