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女とピストル

 午後一時、駅前広場でひとりの女がよく知らぬ男の胸に狙いを定め、拳銃を一発撃った。同時に彼女は自分が男を撃つ姿をマンションのベランダから見ていた。よく知らぬ男を撃った瞬間、女は人を殺したとことを事実として認識した。罪の圧力が彼女の肉体を固く絞り上げ、女は罪から肉体をほどこうと工夫しくるくる回った。けれど、おかしい。駅前広場からここまで全速力で走ったとしても五分はかかるはずだ。今、自分は部屋の中だ。朝からずっと部屋の中にいる。テーブルに飾ってある白いマリア像もいつもと白い笑顔で固まっている。
まぼろしを見たのね、疲れているのかしら。
 女は居間に戻り、音楽を聴いた。モーツアルトのソナタが好きだ。古い棚には書物が並ぶ。鳥かごのインコが何かを喋った。いつもと同じだ。なにも変わったことはない。
夫もまた、いつもと同じだ。ソファに腰かけ、煙草を吸っている。妻の姿を見るなり、幸太郎は立ち上がり「腹がへった」とこぼした。夫の背丈は昨日よりわずかに伸びている、妻にはそう見えた。妻はテレビの速報を探した。インターネットで最新ニュースを確認した。ラジオもつけてみた。駅前広場の殺人事件を告げるニュースはどこにもなかった。
 毎日、女は警察が訪れてくるのを待った。が、警察は来ない。マンションの知り合い、散歩道で出会うと立ち話をするご夫婦、誰もがいつもと同じ、妻の日常にはなんら変わりはない。ただひとつおかしな変化がある。夫の身長がどんどん伸びていることだ。
 ある日とうとう夫の頭が天井にふれた。夫は怪物になったのだ。妻は夫の胸めがけて拳銃を打った。しかしひとつの叫び声もなく、どこにも一滴の血も流れなかった。夫はいつのまにかその姿を消していた。
 翌日、妻は教会を訪ね、神父さまに告白をした。ふたつの大きな罪を犯してしまったと妻は熱心に神父さまに話をした。駅前広場で知らない男を銃で撃ち抜いたこと、長年連れ添った夫をも殺してしまったこと。妻の話を聞き終えると神父さまは、あなたの旦那さんはもう何年も前にお亡くなりになっています。それに最近、このあたりで殺人事件は起こっていません。お疲れなのでしょう。大丈夫。神のご加護がありますよ。
 女は帰宅した。疲れているのだ。そういえば夫は煙草など吸わなかった。すべては白昼夢なのだろう。妻は掛け布団カバーを新しいものと取り替えようと引き出しを開けた。畳んだ掛け布団カバーの奥、何か固いものに触れた。取り出した。拳銃だ。弾は五発入っているはずだ。女はおそるおそる弾の数を確かめた。五発のうち、二発の弾が減っていた。

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