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American Life③

 アメリカに少々住んでいたという話をすると、よく聞かれるのがどこの大学に留学されていたのですか?と。「とんでもないですよ、ただの語学学校ですよ!」と返す。大学に入ってすぐにアメリカに行こう!と決めて、親に相談をした。通っていた大学が2年から3年にあがる際に、キャンパスが変わるので、そこがチャンスだと思っていた。1年生、2年生と厚木のインターチェンジ近くの運送屋でアルバイトをずっとしていたので、そこの会社の方々とも仲良くなり、家具や家電などの荷物を安く預かってもらえるっていうのもあった。

 話を戻すと、あまちゃんな考え方だったので、アメリカの大学に入学するつもりなんて毛頭なかった。なので、留学というかアメリカにある語学学校に通うといった具合だった。当時でいうところのアメリカにあるNOVAみたいなもんだ。午前中はグラマー(文法)の授業とカンバセーション(会話)の授業、午後からはなんだっけかな?カルチャー?的な授業があるだけで、3時には学校が終わるといった感じ。幸い中学、高校と英語は苦手な方ではなかったのと、少しだけ英会話に通っていたので、午前の授業はふたつとも真ん中よりは上のクラスに入れた。ただし、もちろんのこと授業は英語なので、最初の1ヶ月はなんじゃこれ?何言ってんだ?このひとたち?くらいの感覚だった。

 よく私が英語について誰かに話をするとき、こういう言い方をするんだけど、最初の1ヶ月くらいは、まず英語を聞く、頭の中で日本語に訳して、日本語で考えて、また英語に訳して言葉を発するみたいな感じ。つまりはめちゃくちゃ時間がかかる感じ。1ヶ月もすれば普通に英語で聞いて英語で考えて英語を発することができるようになる。よく英語で夢をみるようになったら話せるようになったことだっていう人もいる。

 ま、そんな感じで授業がはじまったんだが、まあ日本人の多いこと。ひとクラスに必ず3人から4人の日本人がいた。そんな中で、一番最初に仲良くなった日本人がいた。タカだ。タカは私よりちょっと先にボストンに来ていて、非常に明るくて前向きで怖いもの知らずで、まあとにかくすごかった。で、タカが僕に最初に言ったこと。「たけちゃん、ここでは日本語喋らないようにしよう!たとえ日本人どうしでも」と。なんだろう、当たり前のようで当たり前ではなくて。確かに日本人同士でずっとつるんでいる人たちもたくさんいた。タカは敢えて外国人の友人たちとつるんでいた。そりゃそうだな、せっかく日本を離れているわけだから。

 そんなこんなで、アメリカでの生活のほとんどにタカがそばにいた。日本人どうし下手くそな英語でいつも話をしていた。今でもタカには心から感謝している。タカがいなかったら今の私の英語力はなかっただろうなと。

 ありがとね、タカ。

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