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以前乗っけた小説を手直ししました。

↑にも乗っけてます。
ちなみに、↓の小説の続編みたいなものです。


 瞬間的な恋程儚い上に切ない、なんてことは昔から良くあることだ。それは「二度と会うことが出来ないかもしれない」という、結末がどうなるか分からない不確実性とまるで幻のような感情。それでも、また出会うことがあるならば……と感じる期待が瞬間的に強い愛情を呼び起こす。
 だが、その場限りで出会い、そして瞬間的に燃え上がった恋愛が何かを残すなんてことは少ない。最終的に幻と考え、諦めてしまうから。なのに、私たちは瞬間的に生み出される強い愛情に何度も惹かれる。瞬間的な幸福は生み出されるけれど、そのあとに残るのはまるでハリケーンが過ぎた後に生まれる傷跡だけだというのに。
 だから人はいつからか悲しみを出すことさえ失くす。出会い、それから別れる。自然と生み出されたサイクルのようなものによって。何度も体験するたびに、人は感傷という言葉と感情に耐性を持つようになる。そのたびに傷跡を愛でるようなことさえも。いや、忘れるというよりも拒む。愛情を示すということでさえも。あるいは何かしら別の何かで満たされてしまえば、そこでとどまる。
 感情の風や嵐に身を任せることを放棄して、最初からそんなことに期待しないのが一番なのだと、やがて人は気が付く。大体は、叶わないのだから。

 そんなことを二十歳そこそこの私たちが何か全てを知り尽くしたように語る様は何やら少しだけ滑稽なのだけれど。ただ私たちは、半径5センチの世界にいる同い年の人よりも少しだけ多く知っているだけなのに、全てを知り尽くしてしまったかのようになっている。そこから先の世界があってそれらがあることを知っていても、見ることも無いままで。いや、見るという選択肢さえ頭の中に無いまま、今日も夕方からシャンパンを開けていた。
 夏の終わり、月に一度の学生でやる自己啓発系サークル。ハワイ帰りのような派手な格好をした女性経営者が女性として愛されるためになんてことを語り、それを聴いてうっとりした私たちは、その打ち上げで私たちはシャンパングラスをかしゃん、とぶつける。こんな引っかかりのある飲み物だったっけ、と思いながら。
 こじゃれた食事と雰囲気の居酒屋。ナンパされた男や一方的な片想いをされていた男の話をしながら、今日も会話のボールを弾ませる。とてつもなく大きな暇を貰った私たちは、思いつくままにできることをやった。インスタグラムに上げられるようなことを全て取り組んで、それからいかに自分の夏が輝いていたのか、充実していたのかを自慢しあいながら語る様を私はただ眺めるように聴いている。
「あーあ。結局バイトとこうやって集まってしゃべっていただけか」
「私は怜くんとドライブ行ったり、キャンプ行ったりしたもんねー」
「良いですよね恵美さんは。あんなに素敵な彼氏がいるんですから」
「そうそう。あんな陰気メガネの暗い奴なんかよりもよっぽど良いって」
「絶対あいつってドーテーだよね」
「わかる! 30を越えているくせにさ!」
 そう言いながら、男の悪口を言い合って、彼氏がいようがいまいが表面だけ取り繕ったようなキラキラだけが残されて。どうにも内側から感動するような夏にはならなかったようで何よりだ、と私は思う。
 そういえば、あの経営者の下に就職した有沙さんは働き始めてから、次第にその目の色は曇って行くようになっていたし、他にも大きな目標を掲げていた先輩は身の丈に合わないことを言い続けて、ただの社会人となり替わってしまっている。目の前のことをやりすぎていくあまり、所属しているだけでそこで立場を与えられるだけで。自分が特別な存在であると勘違いをして、やがて操り人形のようになって行くのだ。
 この店だって、講師をしている女性経営者の旦那が経営していて、運営の紗里はここでアルバイトをしているし、恵美はその女性経営者の下で大学を卒業したら働くことになっている。さくらだって、別の講師が経営する会社に勤務することが決まっている。最初からできる人間よりも、能力が高くて自分たちに従順な人間が欲しいというのが丸わかりで、うんざりする。それで輝く大人になれると信じているのだから、やっぱり私たちはまだまだ子供なのだと思う。
 私は話を聴きながら、値段が張るだけのシャンパンのグラスを開ける。土曜日夕方、まだ世の中で何も成し遂げてなどいないという事実から目を背けながら。私たちには可能性があるんだ。世界を変えることが出来るんだ。そう宣ってみる。だが、その声は決して届くことはない。何よりも私たちは、ただ自己啓発の機会を友達や後輩へと与えているだけで本当の意味で半径5センチの世界を変えた経験など無いのだ。そして、それさえも変えられていないという事に気が付いた瞬間から、絶望からその目は曇っていって何も映さなくなる。ドーテーと馬鹿にされていたあの男の人の名前は、確かユウさんといった。彼は、何をしているのだろうか、などと想像しながらシャンパンを口に含んだ。どうにも通りが悪い酒だ、と思う。

「そういえばさ、有沙さんこっちに戻ってきたらしいよ」
 さくらがシャンパンを飲みながら周囲に話を切り出す。
「え、実家に帰ってたんじゃなかったの?」
「それが別の男を追いかけて京都に行っていたって」
「えー、やだー。ストーカーじゃん」
「あれ、有沙さん?」
 そう言って、こじゃれた居酒屋の入口に目をやると、私たちが知っている有沙さんがふらりと現れた。短めショートの栗色でいつもトリートメントで纏められていた髪の毛はすっかりと長く伸びてしかも黒く染まり、毛先にかけてウェーブをしていた。かつてはブランドもののような色合いと明るい色合いで着飾っていた姿は、オーバーサイズの黒のTシャツと黒のスキニーに白色のスニーカー。あれだけ美白にこだわり、エステやジム通いをしていた時のような「不健康」な身体は陽に焼けて健康的に変わっていた。
 誰かにこびていたような姿を全て捨て去った様に見えた。そんな彼女は私の記憶よりも鮮やかに見え、そしてちょっとした値段の張るブランドもので着飾った私たちがまるで着せ替え人形のように映る。そして、ただ服に着せられているだけであることに気が付かされてしまう。アルバイトしてお金を貯めて買った、ちょっと高いよそ行きのTシャツも、キラキラしてかわいらしいピアスもネックレスも。まるで量販店で揃えた安っぽいスウェットのように、安っぽく映ってしまってならないのだ。ガタリ、と椅子を引く音がした。さくらと恵美と紗里が、有沙が座ったカウンター席へと向かう。
「有沙さん、ご無沙汰しております」
 そう言って恵美は挨拶するけれど、それは決して友好的なもので無い事だけは確かだった。ただ、私はなぜだかそんな有沙さんがとても格好良く見えて仕方がなかった。サラリと着こなした様、澄んだ何かを見ているような目。間違いなくこんな有沙さんを私は知らない。だって、私が知っている彼女よりうんと、格好良くそして綺麗になっていたのだから。皮肉を込めたトーンで、さくらが言葉を続ける。
「ずいぶんと変わられたんですね」
「ええ。恋してたから」
 その言葉を聴いた瞬間に、周囲から音が止んだ。それから生まれたのが思わず吹き出してしまうような笑い声。それを鼻で息をしながら、有沙さんは笑って返した。
「そうか……そうだよね。まだ分からないことだものね」
 そう返すと、注文をする。テーブル席でワーワーと騒いでいた私たちをあしらうかのようなその様に、さくらから口を開き始める。
「良くこんなところに顔を出せましたね」
「慧さんとの不倫、色々と話は聴いていますよ」
「先輩があんな人だと思いませんでした」
 口々に有沙さんを非難するかしましさをよそに、体温さえ感じさせない口調なのにゆったりとした口ぶりで彼女は言葉を返した。
「どんなことを吹き込んだのかしらね。あの人」
 更に詰め寄って、恵美とさくらと後輩の紗里が揃って有沙さんを問い詰める。まるで悪いことをしたクラスメートを、寄ってたかって咎める優等生たちのようだ。お通しとジントニックが出てくるとサラリと一口飲んだ。それから、カウンター席を取り囲む恵美とさくらと紗里を一瞥する。
「まあ、もう関係の無い事だけれど」
「そう言ってごまかそうとするのやめてください」
「人の色恋沙汰なのに?」
「それだけじゃ済まないんです」
 紗里が口を開き、それで後輩の誰それがどうだとか、同級生のなんとかに迷惑をかけたとか。有沙さんにはほぼほぼ関係の無い事まで問い詰めて、彼女を困らせていた。それに同意しているのはさくらと恵美だった。そして最後には正論を突き付けようとする。弁明なんて、無い。そして有沙さんは最初からそんなことをする気は無かったようでもあった。一通りの話が終わったのか、ちょっとしたおつまみとお酒。それらを飲んでからもう一度有沙さんは三人たちを見る。それはまるで嫉妬を何か別のエネルギーに変えて糾弾しようとする何かに似ていた。人間の奥底にあるそれに。
「でも、しょうがないじゃない? 好きになっちゃった。そして付き合っていた。それだけよ」
 それからグラスビールにクラッカーとチーズを頼む彼女を見て、紗里は顔を赤くして反論しようとする。
「どうしてそんな好きになっちゃったとか、付き合ったとかそんな軽く言えるんですか!?」
「三人ともやめなよ! ここ、お店だよ?」
 夕方、別のお客さんも入ってくる。今にもケンカになってしまいそうな空気を察した私は慌てて紗里を止め、加勢しようとするさくらと恵美を諫めた。席につこうよ。ね? と促した私とすごすごと席へと戻る3人。なのに席に戻っても、3人は強く睨むような視線を送っていた。といっても、後輩の一人からそんなことよりも来月どうしますー? という声が挙がった瞬間、私たちはまた制服が似合う女の子へと戻る。その一方で何かあったの、と言わんばかりに何事もなかったかのように振る舞う有沙さんはサラッとしていて、格好良く映った。仲裁に入ったまま席へとつくのを忘れていた私は、呼ばれて慌てて席へと戻った後もぼんやりと有沙さんを眺める。
 格好いい。本当にそう思う。慧さんと付き合っていた時よりも遥かに目が輝いていて、遥かに芯が強くなっていて。何やらつまらないコピーされたような正論に負けない奥底にある強いものが見えた気がした。もう一度私と目が合った。にこりと笑うと、スマートフォンを掲げた。見ると、LINEが入っていた。
「ねえ、この後飲み直さない? 私、あの子たちのこと嫌いになっちゃったみたい」
 にこりと笑いながら、有沙さんが私にそうやってメッセージを送ったことさえ、誰も気が付かない。気が付こうとしないようにしているとも言えるのだけれど、本当にキラキラしている物から目を逸らそうとしていてそれがあまりにも滑稽に映った。私もどうやら、彼女たちといることが苦痛になり、そして嫌いになりつつあるようだった。
 それはキラキラしているのだろうけれど、プラスティックで出来たおもちゃをダイヤモンドと言い張っている子供の自慢話にしか聴こえない。どうやら、私たちは行動していると言い張りながらも所詮は安全圏でふんぞり返っているだけらしい。どうやらキラキラと恋をするためには思い切り外へと出ることが重要なようだ。結局有沙さんが出て行くまで、さっきまであれほど楽しいはずだった会話は退屈なそれに成り代わってしまった。
 それから私に目くばせをして立ち去ったのを見て、私そろそろ用事があるから帰るねと言ってみんなに別れを告げた。うん、またね! と返された言葉の様は恐らく押し入れで眠る制服を着せて話しても、きっと変わらない。ただ、違うのは千円札を3枚ほど出さなければならないということだけだ。私たちは結局まだ、半径5センチどころか円の中心さえ変えることが出来ていないまま、ただ時間を浪費しただけで私だけそれに気が付いてしまった気がして、少しだけ罪悪感を抱いた。

 有沙さんがすたすたと歩いていき、私が追いかけて行くのはほんの5分もしないうちに終わった。くるり、と振り向いて笑顔で私に手を振った有沙さんは今、誰よりも悲しそうで、誰よりも美しかった。先ほど、三人の子供たちに囲まれながらも食事と酒を楽しんでいた人とは真反対の様を見せた彼女に愛おしささえ覚えるほどに、有沙さんは弱々しく感じていた。既にその両の手には、500ミリリットルのレモンサワーがある。
「寂しいものね」手渡されると、有沙さんは私に口を開く。「ちょっとした過ちから人はみんな敵になって行くんだから」
 おしゃれな象徴の駅とコンビニで買ってきた缶のレモンサワー。ちょっと釣り合い取れないなあ、なんて思って私は苦笑いする。それでも、有沙さんから受け取ったそれのプルタブを上へと向ける。
「慧さんとの不倫のことですか?」
 訊くと、一度だけ首を縦に振った。
「私ね、あの時の自分は本当に彼に愛されたいがためにしか自分を存在させていなかったんだと思う。だから、彼に一方的な別れを告げられた時、全員が敵になってまるで私という存在が最初から無かった物にされていくのがとても辛かった。体中から魂が抜けていく感じっていうのかな。そこに自分がいるはずなのに、自分が居ない感覚になっちゃってね」
 ちくり、と私は胸が痛んだ。それはさっきまでの私だった。周囲のことよりも自分のことさえ変えられていない私に、その言葉がひどく響いてしまっていたのだ。居場所なく、周囲に合わせていただけだったことに気が付いて。有沙さんの言葉が続いていた。
「だからね、あそこに居所のなさそうなあなたを見た時、なんだか懐かしくなっちゃったの。それに久しぶりの再会だし。あなたも居所が見つかれば、うんと輝く女性になれると思うよ」
 それなのに、そんなことを言われてしまって。私は思わず顔が赤くなるのを感じて、余計にうつむく。有沙さん、こんなに人の心に入るのが上手だったかな。そんなことを思いながら。おかしいな、シャンパンではそんなに酔わなかったのに。缶のレモンサワーは人の心をあけっぴろげにしてしまうのだろうか。
 おしゃれな駅のロータリーは人が出て行ったり、中に入ったり。いつまでもグダグダと居れば、さくらたちとばったりなんてことがある。だから、歩きましょうか。そう言われた時、横顔からなら恥ずかしさを隠せるなんて事を思ったり、でもやっぱりちょっぴりうれしい気持ちも伝わってしまったりするかも、なんてことを考えてついていく。
「張りぼてで、虚飾に満ちた輝きや自分なんてすぐに剥がされちゃうの。思うと、彼との恋はそうだったんだと思う」
 寂しそうに笑う有沙さんはそれだけでも美しかった。どうやら、恋をしていたというのは本当のようだった。だからこそ、切り出し始めた。
「じゃあ、今回の恋は素敵な恋だったんですか?」
「ええ、もちろん」
 先ほどとは違った、明快で朗らかなトーン。それは幸福に満ちた顔で。
「どこで出会ったんですか?」
「そうねえ。私、あれからカフェで働いていたんだけれど、そこの常連さんでね。ただ、面識も無ければ特別それまで挨拶さえしたことなかったの。ユウさんだっけ? あの黒ぶちメガネってあなたたちがバカにしていた冴えない男のような顔をしていてさ」
 思い出す。陰気な黒ぶちメガネの男を。
「焚火をしていたの。一人で寂しそうに。物思いに耽りながら、タバコを吸っている様はなんだか格好を付けているだけのようにも見えたけどね」
 笑いながら。繁華街からは遠く離れて行く。私たちは線路沿いを歩き、傍らで忙しなくJR線が走り回っている。
「焚火にはパーマをかけた金色の髪の毛と髭面、ダボッとした服とレースアップされたブーツ。最初はビジュアル系が崩れたのか、チャラ男かと思ったわよ」
「言われてみると」
 クスリと私は笑う。
「ビスケットとマシュマロを持って『これがやりたかったんだー』なんて笑う、子供のような人だった」
「なんだか、それこそ慧さんと全く違う人ですよね」
「うん、そうだと思う」
 慧さんはそれこそ、あれもこれもときっちりしている人だった。人当たりの良い爽やかな人。けれど、どうしても時々見せる薄っぺらさが鼻について、私自身好きになることができない人だな、と思っていた。ただ、人当たりの良さから周囲からは強く信頼されていたのは間違いなかった。
 そうして無理に作り上げた信頼を失いたくないから。薄っぺらさを隠したいから。有沙さんを不利に貶めるようなことをして、自分が被害者で有沙さんを加害者に仕立て上げる必要があった。その言い訳はさながら演技が多少入っているようにも思えたのだけれど、いずれにしても有沙さんに弁解する言葉が無かった。そもそも、有沙さんは向こうが結婚していることさえ知らなかったのだから。そうして有沙さんという存在を周囲から消去した。そうしないと、自分が周りから消されてしまうから。スーツやポロシャツでぴたりと止めた服装の慧さんを思い出しながら、金髪パーマの男の話がさらに深くなる。余計にビジュアル系崩れが気になって仕方なくなる。
「その人、どんな人なんですか?」
「根無し草」
「え」
「自分でそう言ってた。日銭稼いで、ある程度お金が貯まったら旅をしてっていう人らしいから」
「本当に根無し草なんですね」
「そうなの。でも、今まで見たことがないくらい自由で、風のような人で」
 遠く、細い目でネオンが瞬く遠い街を見るように、有沙さんは幸福そうな目で語る。
「私があの人との思い出を振り切るきっかけも作ってくれたから」
「まさかセックスとかですか?」
「もう! どうしてあなたはそう即物的なの? 周りの人たちの情報に毒され過ぎ。誰かと交わることや愛を感じ合うのはもっと先。ただ、彼は私に温かいものときっかけを与えてくれたってだけ。嫌味も無くて、押し付けるような物でもなくて。とっても優しくて温かな物。といってもコーヒーを飲みに来たり、私がコーヒーを飲みに行ったり。焚火を囲んで話したり。本当にそれだけのことだけど、あの寒い冬に彼と囲んだ焚火はとても素敵な思い出だった。与えて疲れてばかりだった時と違って、与えてもらうってこんなにも尊くて、素晴らしいものなんだって」
 興奮したかのように話す有沙さんを見て、私はふとそうした情景を思い浮かべてしまう。なんてことのない話で盛り上がりながら、時々静寂を感じながら。そうやって囲む焚火を私は思い浮かべる。真っ暗闇の冬の海岸、パチパチと鳴る木の音と、炎のオレンジ。ぼんやりと浮かんでいる光の中に寒空と温かさを共存させている二人が浮かんできて、私はなんだか心が満たされていくような感覚を覚える。その場にいたわけでも無いのに。
「でも、明日にでも居なくなっちゃうって思った。びゅう、と風が吹いたらどこかへと飛んで行ってしまうかもしれないって思うくらい、自由で。今まで固まっていたものをこの人ならきっと、解放してくれるんじゃないか。私、そう思ったんだ」
「それで、解放されたんですか?」
 有沙さんは私を見た。一回、首だけでなくかぶりを振る瞬間に目を閉じながら。
「とても素敵に解放してくれた。自分の呪縛だと思っていた物を燃やして、自由にさせてくれたの」
 そういえば、いつも自慢気に持っていた赤いシャネルのハンドバッグが手元に無い。あれは慧さんから就職祝いで貰った、と大喜びしていた物ではなかったか。ただ、もうそれらで着飾る必要がないと、彼女は思っていたのだろうか。
「ただ……いつも彼は寂しそうだった。最後までそれを話してくれなかったのだけれど、たったそれだけが今もまだ心残り」
「話してくれなかったことが、ですか?」
「何かから逃げているようだった。それと、人の感情の中にある好きっていう感情を恐れていた。どうしてそうなのかは分からない。人にはいっぱい色んなものを与えてしまう人なのにね。けれど、自分から愛情を受け取ると困ったような顔や寂しそうな顔をしている彼が、とても素敵だった」
 路上。忙しく走るJR線。決してお行儀なんて良くないのに、綺麗な風が何かを浄化しているかのように有沙さんを輝かせていく。
「素敵な人だったんですね」
「そうね。でも、少し悲しかった」
「どうしてですか?」
「それらを振り切った時、与えてくれた時。とても幸せ過ぎたから。今この瞬間がピークなんじゃないかと思うくらい。今思うと、やっぱり居なくなってしまうことが怖かったのね」
 私は有沙さんの話に耳を傾ける。気が付くと、ネオンのきれいな街を歩き、マルイやらタワレコやらを通り抜けて、またJR線の高架が見える場所へと来ていた。
「焚火でバッグを燃やして、その夜わあわあ泣いたわ。私にとって大切だったはずのそれら全てが、何もかも大切でないことが分かってしまって。それに、大切にされていないことの悲しさがこみ上げてきて。気が付くと震えて泣いていた」
「居なくなってしまったんですか?」
「3日経ったら、出て行った」
「出ていく時に、LINEやFacebookとか聞かなかったんですか?」
「うーん、今思うと聞いておけばよかったかな。ううん、もっともっと。色んな事を聞きたかったし、知りたかった」
 だけどね。そう言って言葉が途切れた。ただ、その目はもっともっと語りたいことが沢山あるように思えてならなかった。ただ、言葉がいくつあっても足りないものを、その男に出逢ったことで手にしてしまった。慧さんとどれだけ会っても手に入れることが出来なかったものを。私はそれを手にした有沙さんを美しいと思った。そんな瞬間的な感情が生み出されて、今も忘れられないのだろう。目じりに涙を溜めている。坂道を登る。うっそうと木々が生い茂る公園まで、あと少しだ。
「有沙さんは、今もその人のことが好きなんですか?」
「どう……だろうね。だけれど、思い出を紡ぎたいと思った。あんなに暖かくて、優しい人初めてだったから」
 大きく開けた公園では、路上で酒を飲んでいる男女が多くいて、私たちもその品のない群れの中へと入って行く。品はないけれど、さくらや恵美や紗里よりもキラキラと輝いて見えたのは、私も涙を流していたからだろうか。なぜだか、頬を伝っていく涙を止めることが、私にもできなかった。
「なんであなたが泣いているのよ」
 有沙さんに笑われて、気が付くと私もわかんないです、と笑いながら涙をぬぐった。でも、と思う。二度と会えないのではないかと思うと、それがあまりにも寂しく感じて。その場にいたわけでも無いのにどうしてだろう。暖かく、優しく。風のような男に、私もまるで血が一気にぶわりとめぐってしまうような、駆け抜けていきたくなるような。そんな恋をきっとしてしまうのだろう。さながら映画を見ているような気持ちになって。
「初めて感情が溢れたの。沢山与えられて、やさしさを届けられて。今までは私自身が無理に好きって感情や、やさしさを与えていただけだったんだ、って」
「今は違うんですか」
「慧さんと付き合っていた時よりは、はるかにね」
 その時、有沙さんの背中からとても美しい羽が見えた。ような気がした。彼女の輝きは、あのハワイ帰りの女とさくらや恵美や紗里のそれとは違った、美しくて誰かのコピーでないキラキラ。
「別れてから、どうしたんですか?」
「追いかけた。京都に行ったって聞いたから。結局ダメだったけどね」
「そうだったんですね……」
「でもね、またどこかでばったり会う気がするんだよね」
 そう言って、ただどこか寂しそうな顔をして有沙さんは残ったレモンサワーを飲み干す。私もまねて飲んでみようとするのだけれど、多少温くなってしまったのかさっきも少しだけ通りが悪い。その人が見つからなかったらどうするんだろうと私は思う。その考えを察したのか、また有沙さんは口を開いた。
「もし、見つからなかったとしてもね、それはそれかなって。だって、きっと生きている気がするから。次は、私が力になりたいからさ」
 笑いながら。その時また、私の中で血がぶわりとめぐる。まるで強い風が私の中に眠っていた何かを呼び起こしたかのように。まるでハリケーンが吹き付けたように、感情が駆け巡った。慧さんと付き合っていた時には彼がいないと消えてしまいそうになっていた有沙さんが、どうしてこんなにも輪郭がはっきりして綺麗になったんだろう。私はそんなことを思う。それも恋の力なのだろうか、と思いながら有沙さんを見つめる。私は少しどぎまぎとしてしまうのだけれど、まだ彼女はハリケーンの中に居て、好きも嫌いも心配も喜びも。それらに身を任せた先に残るものが深い傷跡であっても。何一つ残さなかったとしても。それさえも覚悟をしていて。だからこそ、美しい。有沙さんはまた、目じりの涙をぬぐった。
「あーあ。もう一本飲みたくなっちゃった。どう?」
 心地よい声で、有沙さんに訊ねられる。私はそれを聴いて、うなずいた。「いただきます」と返しながら。その顔を見たのか、有沙さんが顔を近づける。
「ん、さっきより良い顔じゃん」
「そんなこと」
「ううん、私思うよ。あなた、絶対素敵な人になる。あんな子たちよりも、ずっとずっと」
 頬を触れられて、私は思わず目を見開いた。絶対の「ぜ」のトーンに少し驚いた私は彼女にどんな顔を見せていたのだろう。有沙さんは微笑んで、コンビニへと入っていく。私もあんなにハリケーンのような感情に身を任せながら生きることが出来るのかな。そんなことを思いながら、その背中を追いかける。

(了)


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