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佐藤清治「哀しき天才」

この時期になると、有力な高校生がどこの大学に進学するかということで話題となる。今年も様々なサプライズがあった。
その中でも、佐久長聖高校から順天堂大学に入学する生徒が発表された事は驚きを持って迎えられた。
というのは、佐久長聖と順天堂大学は浅からぬ因縁があるからだ。佐藤清治さんという、今現在でも語り継がれる大天才を巡って。

佐久長聖黎明期の「怪物ランナー」

佐久長聖は、佐藤悠基選手に大迫傑さんといった日本の陸上長距離史上に残る名選手が相次いで卒業した名門校である。
その黎明期に、佐藤清治さんは活躍した選手である。
後に佐藤悠基選手や上野裕一郎さん、大迫さんといった、才能ある選手たちを預かり育成することとなる両角さんをもってして「100年に1人の逸材」と称されたその才能は、高校生のそれでは無かった。

高校1年のインターハイでは1500メートル走で優勝すると、800、1500、3000、5000メートル走の高校生記録を更新。
しかも、1500メートル走では実業団選手をも凌駕し、日本記録にまであと0.25秒まで迫るほどだった。それが高校3年生の時である。

そのような過程で17歳でアジア大会を経験し、18歳で世界陸上に出場。
駅伝でもずば抜けた才能を見せつけた。
まともにアップをせずに都大路で区間新記録を樹立(2区。これは現在も破られていない)、3年次にはアンカーとして出場すると区間賞。
それも負傷した状態で、である。その伝説的な強さに世界を期待させたのは間違いない。

だが、彼は上のカテゴリーへと登って行く中で消えていってしまった。
それはなぜなのか。

順天堂大学での挫折と退部

華々しい実績を引っ提げて、駅伝の名門校でもある順天堂大学に進学した佐藤さん。
当初「箱根駅伝には出場しない」との条件や、沢木啓祐総監督の「指導者人生の集大成を佐藤に賭ける」といった発言もあり、800m~5000mをこなせる中長距離選手に育成予定だった。
関東インカレでも800mと1500mで優勝を経験した佐藤さん。

しかし、先の「箱根駅伝には出場しない」という条件にもかかわらず駅伝メンバーとともに北海道合宿で40km走に取り組まされたということもあった。
当時の澤木さんの指導方針などもあったとは思われるが、その後佐藤さんは故障に苦しむこととなる。高校時代までの華々しい成績を残すことも出来ないまま、退部。
2004年に大学を卒業後は、陸上競技そのものからも離れてしまった。

秋ごろに再度実業団に入部するものの、結局モチベーションまでは元に戻ることなく佐藤さんは2005年に現役を引退してしまった。

なぜ彼は大学から活躍できなくなったのか?

個人的には大きく分けて3つあると思う。

「逸材」がことごとく故障に苦しむ環境だった

100年に1人の天才というのは嘘偽りは一つもないだろう。多くの高校生記録を樹立し、駅伝ではアップ無しで区間新記録を樹立するほどのポテンシャルを持っている高校生は、恐らく今の時代にも居ないはずである。

不幸だったのは、彼自身の故障の多さだった。そして、当時の順天堂大学という環境も彼を苦しめていたのだろう。実際に彼がどのような指導を受けていたかどうかは分からない。だが、当時の順天堂大学では育成という面では疑問が残る部分が多かったことは否定できない。

ダブル佐藤の一角であった佐藤秀和さん、四天王と呼ばれた一人である松岡佑起さん。彼らもまた、高校生としては破格の才能を秘めていた。
だが故障なども含めて大成させることが出来なかった事実から目を背けることは出来まい。結果として、今井正人さん卒業後に順天堂大学は長い低迷期に突入することとなってしまった。
素晴らしい逸材を必ず育ててくれると信じて入学させたのに。そうした感覚を高校の指導者の方たちが持ったとしても何も不思議ではない。
そして、強い不信感を持たれた可能性だって否定は出来ない。

だが、イコールで「順天堂大学が佐藤清治を潰した」とまでは言えない理由もあるのだ。

「自分」に気が付くことが出来なかった

佐久長聖高校時代から、授業態度の悪さと生活態度の悪さを気にかけていた両角さん。著書でもある「人間力で闘う」より彼のことについて

『清治は男気があるというか、こちらが一生懸命接すると一生懸命それに応えようとする子だった。ただ、遊びに誘われると断れない。節制もできないという自己管理ができにくい性格だったので、高校時代はそれを改善するような指導を心がけたのだが、大学で大勢の選手の中でそこまでの指導を期待するのは無理だ。』

両角速-「人間力」で闘う: 佐久長聖高校駅伝部強さの理由より

と彼の未来を心から案じていた。
『大学で大勢の選手の中で』だと埋もれてしまう佐藤さん。遊びに誘われると断れないし、節制もできない。だがそれは、何よりも自らの才能に気が付いていなかったのだろう。
誰かがそれを気づかせてあげれば、世界という大きな舞台で躍動をしていた可能性だってあった。だが、彼は一時の快楽をどうしても選んでしまっていたのだ。

最後自らに負けてしまう「弱さ」。それをどうしても佐藤さんは克服できなかったのだ。そして自らの才能を誰よりも疑ってしまったのかもしれない。

それを否定するわけではない。何より彼にとって苦痛だったことは彼が「一人」だったことなのだから。そして、それが3つ目の理由になる。

ライバルの存在

2018年からマラソンの日本記録がどんどんと更新されていく事が続いた。
最初は設楽悠太選手、その後に負けじと大迫さんと続き、とうとう2021年には鈴木健吾選手がアフリカルーツで無い人物として、初めて2時間4分という世界に足を踏み入れた。

大迫さんや設楽選手はまさしくライバルであった。そして、日本のマラソン史上に於いてもハイレベルな競争が今でも続いているのは「ライバル」として選手たちが高めあっているからに他ならない。
だが、佐藤さんの場合はどうだっただろうか。彼の才能はあまりにも突き抜け過ぎていた。
ずっと、彼は孤独だったのだろう。実業団の選手でも彼を凌ぐようなポテンシャルを持っていた選手は居ない。
そして、彼には陸上の世界で競技レベルでの「理解者」が居なかったのだろう。当時にしては、あまりにも才能がありすぎたから。
それはとても悲しいことである。

そして、誰にも分かってもらえないまま彼はずっと孤独だったのだ。その苦しさは察するに余りあるものだ。

哀しき天才の才能は今も煌めいている

今振り返っても、本当に彼の才能は今でも煌めいている。残念でならないほどに、強く。

これはタラレバの話でしかないし、佐久長聖が順天堂大学の推薦をしなかったというのは事実から察することしかできない。
この20年で順天堂大学に入学したのが数えるほど位しかいなかったということからも、決して浅くはない因縁だったとは思うのだが。
様々な不運と自らの性格。めぐり合わせは悪かったし、タラレバで様々語りたくなることがある。

だからこそ、タイトルに「哀しき天才」と付けたのだ。
その煌めく才能が知れ渡る事さえないまま、伝説的な存在としてしか知られることが無かったのだから。

やっぱり今でも、と思わせてしまう佐藤さんはやはり凄い。

陸上に別れを告げて、もう15年以上も経とうとしているのに。

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