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仮想現実の狂気

 隣の住民は、かなり大きな音で音楽を聴くことを好む。それも同じものを繰り返して。そして、今日もジャミロクワイの「Virtual Insanity」が壁を一枚隔てて、流れてくる。一度、顔を合わせたことがあった。二十代半ばくらいの女だった。
 今日も、ジャミロクワイの「Virtual Insanity」が流れる。いつもと同じくらいの音で、いつもと同じ曲が、例によっていつものように。その中でぼくは淡々と特製ソースの中に漬け込んだ鮭の切り身をタッパーから出す。フライパンに油を敷いて、熱くなった所にその切り身をフライパンの上に流し込むようにして置く。良い音を出して、鮭は焼け始める。そして、一瞬だけあの曲が消える。その間に盛り付ける皿を用意する。そして、あらかじめ切ってタッパーに入れておいたブロッコリーを皿に二、三個盛り付けると、ころ合いを見計らって鮭を皿に盛る。調理の音は止まり、またあの曲が耳元によみがえってくる。
 炊いてあったごはんを茶碗に盛り付けて、鮭の特製ソース漬け焼きを、ぼくは大切に、優しく、食べ始める。

 上司からのがなり声には、多少うんざりしていたが、もう慣れた。
 すいません、と一言だけ謝ると、ぼくは自分の机に戻る。業績が同期の社員と比べても下の方であったぼくは、特に上司によく叱られた。うだつの上がらないぼくは、近々倉庫番へと異動することが決まっている。そっちの方が、気が楽だった。その上司以外から、ぼくはまともに相手にされていなかったのだから。耳の奥であの曲が止まらない。
 ホワイトボードに、外回りとだけ書いて、スーツのジャケットを右手に、かばんを左手に。ぼくは会社を出て行く。まずは得意先から、そして新しい場所へ。悉く断られながら、とりあえず外を回っていく。返ってくる答えがほぼ一つだったとしても、わずかながら可能性のあるもう一つの答えだけを手に入れるために、ただ黙々と回る。例によって、それがあたかも当然であるかのように。隣人と同じように。仮想現実。
 直帰はまずいだろうと思ったので、一度会社に戻る。だが、すでに誰もいない。それでいい。誰の顔も見たくなかったから、ぼくはひどく安堵した。「外回り」と書かれたホワイトボードの文字を消して、ぼくの名前が書かれたマグネットを裏返しにしてから、会社を出る。そういえば、明日は休みだった、と思う。
 町はひどく賑わっていて、スーツ姿の人があちらこちらで楽しそうに笑っているのを横目に、ぼくは駅へと急ぐ。機械的な一週間がようやく、終わろうとしている。何も見えない、呼吸さえできない一週間が。
 家に帰ると、もうあの曲は流れていた。
 ぼくはスーツを脱ぎ捨てて、部屋着に着替えると、鶏肉を丁寧に下ごしらえする。そして、油を敷いたフライパンで優しく鶏肉を焼いていく。皮がパリパリになり始めたことろで、あらかじめ作って置いたてりやきソースを上から流し込む。そして、あの曲を消していく。
ぼくは、そうやってできた鶏のてりやきを大切に、丁寧に、食べる。

 翌朝、珍しくあの曲が流れていないことに気が付いた。比較的、天気のいい日だった。
 羽毛布団と敷布団をベランダの手すりに干し、カバーとシーツを洗濯機の中に放り込む。汗臭いワイシャツも、体を支えたすべての服の汚れを落とすために、洗濯機のスイッチを入れる。洗っている間に、母から送られてきたラー油を使って、チャーハンを作る。辛くて香ばしいにおいが部屋に充満する。そして、味噌汁と一緒に食べる。
 やがて、洗濯機が止まり、洗ったものを全てベランダに干した時には、もう昼に近かった。
 そして、またあの曲が流れ始める。いつもと同じ曲が、いつもと同じテンポと音で。出かけよう、と思う。財布をかばんの中に入れて、スニーカーを履く。
 ドアを閉め、カギをかけると、アパートの大家さんが立っていた。
「こんにちは」
「こんにちは。あの、お隣の人のことなんだけれど」
「ああ、あの人」
「音楽がうるさいって苦情がきているんだよね」
「ははは、そうでしょうね」
「あなたから注意してもらってもいい?」
「ぼくがですか」
「お願いしてもいい?」
 その間にも、あの曲が鳴りやまない。仮想現実。
「分かりました」
頼むね、とだけ残して、大家さんは立ち去る。とりあえず、街へ出ようと思う。
街はとても賑わっていて、休日の午後に多くの人が溶けて消える。ぼくもその中をぼんやりと歩きながら、溶けて消えて行く。
 大きなCDショップに入ったときだった。その音を聞いた瞬間、ぼくはひどくめまいがした。あの歌が、聞こえてくる。テレビによく出るアイドルの歌でも、人気なラブソングでも、アニメソングでもなく、あの歌。ぼくはジャミロクワイのコーナーへと歩いていく。
 ニット帽にオーバーサイズのフリース、アディダスのスニーカー。独特なファッションをした彼の姿をした彼のジャケットが、ぼくの目に入る。
 どこかにあの曲が消える。その代わりに、分厚いエレキギターの音がぼくの耳に入って来る。まるで、部屋が新しく生まれ変わったかのように、ぼくの周りの空気も変わる。時はただ過ぎて行く。
 夜が迫るころに帰宅した。あの曲はまだ流れている。パソコンを開き、インターネットで「ジャミロクワイ」と調べる。動く床にソファが動き、そこでボーカルのジェイ・ケイが踊る。動画が終わる刹那、怒りを表すかのように歯を食いしばる。何を訴えたいんだろうと思う。
 コンクリートに囲まれた部屋、ソファ、虫、カラス。そして、仮想現実。重なり合う何か。洗濯物を取り込んでから、苦情を言いに行こうと思う。

「それで」と彼女は言う。相変わらずあの曲が流れている。「私に何か用でもあるのかな」
 インターホンを鳴らしてから、ドアを開けてもらうまでに数分かかった。20代半ばの女は、何かを警戒するかのような目つきで、ぼくのことを凝視している。
「ステレオのことなんですが……」
「ステレオ?」
「音楽の」
「音楽?」彼女は、大音量で流れているステレオを指さす。ぼくが二度ばかり頷く。「ああ、あれね」
 彼女は一度、玄関から体を引っ込める。すると、音が止まった。
「ごめんなさいね」彼女はぼくを家の中に上げると、お茶を入れるためにお湯を沸かしている。「迷惑だろうとは、思っていたのだけれど」
 部屋を見渡す。部屋の中央にステレオとオーディオが置いてあるだけで、あとは何もない。音がないというだけで、どこか別の世界に来たような気持ちになる。
「では、なぜ……」
「何でだろう」数瞬、考える。「いつも思うことがあるの」
「何をですか」
「いつも私たちは、カオスの中に生きていると」
「カオス?」
「混沌、とも言えるわね」
「それが何か?」
「言いたいのはね」一呼吸、置かれる。「世界はもう、悪い方向へ進んで行っていると思うの」
「なぜ?」
「質問の多い人ね」
「具体的なことが好きなんです」
「あなたも混沌の中にいるのね」
「それが良く解らない」
「そうかもしれないわね」彼女は諦観の念でぼくを見る。「その中で生きる人は、その中のことを見ることはできないから」
「あなたなら、見えると?」
「そうは言わない」彼女は、お茶をすする。「ただ、私を介してあなたは自分を見えるわ」
 お茶はすでに熱を失っていた。

 良く訳が解らないままに部屋へ戻る。壁の向こうにあの曲がよみがえる。風呂にも入らずに、そのまま布団に入ろうと思う。小さい頃、五時までには帰りなさいという母の声がよみがえる。ぼくは、そんな母の言いつけを守っていた。だから、いつも思っていた。五時過ぎの世界はどうなっているのだろう、と。窓の外から世界を見るのだけれど、断片的な絵画か写真のように、その風景がいつも変わることはない。
 ぼくにとっての五時過ぎの世界は、そのころ全くと言っていいほどにそれだけだった。ベッドに横たわりながら、布団の匂いを嗅ぐ。太陽の匂いがした。
 その刹那、ぼくは夢の中へ落ちる。女の夢を見た。あの曲を歌いながら、踊っている。何もない部屋でただステレオだけが踊り、それに翻弄されているかのように、抗っているかのように。直方体の壁の中で判を押されたかのように同じで、あの曲も同じで。警戒しているのか、それとも怒りか。女は敵を見る目でこちらを見ている。敵とは何だ? ぼくなのか、この部屋か、それとも、日常という退屈か。仮想現実。

 倉庫番の仕事は何もすることがないため、ぼくはひどく楽だった。だから、本屋に行ったときにたまたま見つけた音楽誌を読んでいた。ジャミロクワイのジェイ・ケイがインタビューを受けている。ニット帽も、オーバーサイズのフリースも、アディダスのスニーカーも。何一つ身に着けていない。彼は海外にいるセレブのような格好でインタビューを受けている。どこか、物理的にも精神的にも彼はどこか遠い世界にいるような印象を受けた。彼には彼の世界があり、ぼくにもぼくの世界がある。彼の世界には音が絶えないのに、ぼくにはあの曲だけが延々と流れている。帰らなければ得られない音のない今、倉庫に追いやられてしまったぼくにできることは、ただこの雑誌を延々と読み続けることだけだ。まるで、忙しく働く同僚たちとは違う世界に隔離されたかのように、ぼくの世界だけ端から存在していないかのように。
 空を眺めると、世界が広がっている。初めてこの世界を見たとき、ぼくの世界はほんの一瞬だけ変化をした。が、それはほんの一瞬だけだった。結局ぼくはまた仮想現実の中へと引きずり込まれていくように、午後五時の世界と何か似ていると頭の中でオーバーラップを繰り返す。世界が遠くなる。

 家に帰ると、すでに音が消えていた。ここ数日、音がしないことをぼくは訝しんだぼくは、大家に訊きに行く。
「隣の人、どうかなさったんですか」
「なんで」
「最近、曲が聞こえないもので」
「出て行ったよ」
「え」
「家賃が払えなくなったってね」
「そうですか」
 女が出て行った。あの曲はもう聞こえない。そんなのうそだろうと信じたいのだけれど、どうもうそではないことに気がつく。女は、誰にも挨拶することなく、ただ音楽がうるさい女としてこのアパートを出て行ってしまった。
「そうですか」
 ぼくはもう一度だけ、呟いた。
 部屋に戻る。いくら望んでも、もうあの音が聞こえない。壁に耳を当てても、かすかな音すら聞こえない。生きていない。とうとう、ぼくの音は消え去ってしまった。
 ぼくは壊れる。仮想現実の中で、それは膨張し、狂気となってぼくに襲い掛かる。床に崩れ落ちたまま、ぼくは涙する。

 ここから飛び出したいと思う。日常をすべて消し去り、どこまでも遠くへと飛び出したいと。それすらかなわない。ぼくは生きていかねばならないことが、頭の中にある優先順位として上にある。頭の中がカオスと化していく。ぐちゃぐちゃになる。ジレンマというよりも、完全に何かが崩壊していく音のように聞こえた。仮想現実、というよりも仮想狂気。

 翌朝だった。ぼくが会社へと急いでいるときに、会社が爆破されたというニュースが飛び込んできた。それが本当なのかどうか、確かめるためだけに会社へと急ぐ。そして、それは本当のことだった。人だかりができていて、跡形もなく爆破されたビルディングはただの瓦礫と化していた。そうか、と思う。おそらくやったのはあの女だろうと。確証もなければ、動機もない。ただ、ぼくを解放するためだけに世界を打ち壊した。世界規模0.01ミクロン程度のものであったとしても。
 それでも、いいと思う。ぼくは、ため息をついて笑う。家路へと急ぐ。家へ帰ると、そのままスーツ姿でぼくは布団の中に入る。あの音は聞こえない。だから、ぼくは深く深く、眠る。

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