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佃康平「献身」

今年様々な逆風が吹き荒れた駒澤大学の中で、佃康平くんが4年生として残したのは、駒澤大学という平成の常勝軍団の意地だった。6区区間6位タイ。前年に走った花崎悠紀くんのような快走とは行かなかったが、それでも駒澤が3位以内に入る原動力となった。

前回大会の優勝メンバーの中から、唯一の4年生として走った佃くんはこの大会を最後にシューズを脱ぐ。

「谷間の世代」に相次いだ逆風

97回箱根駅伝にて駒澤大学が逆転優勝を達成できたのは、偏に当時3年生だった3人のランナーが快走したことが大きかった。6区花崎くん、3分あった創価大学とのタイム差を詰めて逆転した10区石川拓慎くん、そして佃くんだった。

当時から駒澤大学は田澤廉くんや鈴木芽吹くん、花尾恭輔くんといった下級生の台頭が目立っていて、往路では現在NTT西日本で活躍中の小林歩選手が唯一4年生として走ったくらい。主将の神戸駿介選手や小島海斗選手、加藤淳選手に伊東颯太選手と実力ある4年生たちも出走できなかった。

その中で3年生トリオが意地を見せ、98回での活躍も期待されていた。だからこそ、石川くんの逮捕、そして追い打ちをかけるように酒井亮太くんの退部が大きく取り上げられた。実際、競技外での逆風が多かったのかもしれない。

花崎くんも一時休部するなど、競技を続ける最上級生は一時期4人となり、しかも主将は後輩であり、エースの田澤くん。内心では忸怩たる思いも相当積み重なっていたはずだ。

チームに徹し続けた

それでも、佃くんはチームに徹し続けた。エースであり主将でもある田澤くんをサポートし、練習ではチームメートを引っ張り続けた。夏の練習後にけが人が続出した中で、出雲駅伝に全日本大学駅伝とエントリーされ、全日本大学駅伝では多くのエースが揃った3区にて起用された。

いざという時に大八木監督は佃くんを信頼し続けた。「彼ならばブレーキにならずにある程度走ってくれる」と分かっていたから。そして、やはり箱根駅伝は最上級生がそうした「様」を見せなければならないということが分かっていたから。だが、そんな彼に用意された舞台は準備をしてきた5区ではなく、山下りのスペシャリストが揃う6区。

「秘密兵器」と大八木監督が語っていた存在が佃くんだったことも驚いたが、裏を返せばそれだけ今年の駒澤大学が如何に苦闘し、そして最適解を見出すことにチームとして苦労していた何よりの証だった。

そのような中で速さと秘められた才能がある下級生ではなく、佃くんは頼られ続けた。無くてはならない存在として。そして、佃くんはそれに応えた。最後までチームに徹し続けたことによって。

優勝した青山学院大学を追い詰めることは叶わなかったが、それでも3位という結果を残すことができたのは、偏に彼が最後に見せた献身が形となったということなのだろう。

箱根は実力だけが全てではない

卒業後は千葉県警に就職をする佃くん。彼は決して今時流となっている「速いランナー」ではなかった。5000メートルの自己ベストは13分59秒51、10000メートルの自己ベストは29分台。それでもその走りは実力がないと言われ続けてきた彼なりの意地であり、そして次がある後輩へと向けた献身的なものだった。

そして、その様は間違いなく後輩たちに刻まれ続けていくことだろう。天才だけでない、努力を積み重ねた人が見せた「強さ」は間違いなく箱根路に、そして藤色のたすきに刻まれたはずだ。箱根駅伝は最上級生が味のある走りを見せるチームが強い。

彼もまた、味のある走りとその献身ぶり。シューズを脱ぎ今後走らないにしても、多くの人の印象に強く残ったはずだ。

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