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なぜ自分は「ドライブ・マイ・カー」に強く惹かれてしまうのか?

「ドライブ・マイ・カー」2回見たんですけど、1回目より2回目の方が深く染み渡るような感覚がすごくありました。

で、「そもそも自分はこの映画の何に惹かれているのだろうか?」ということを考えたときに、一つは「自己開示の過程」がとても自然だったからというのがあったんですね。自己開示というか、奥底にしまった感情の吐露というか。

簡単にいうと、映画のスタートの時点では自己開示が出来ていない。で、ゴールの時点では自己開示が出来ている。映画ではその過程が描かれているんですけど、その自己開示のきっかけに非常にリアリティがあるんです。

自己開示のきっかけ、その中核にあるのはチェーホフのテキストですね。チェーホフのテキストを聞いたりしゃべったりすることによって、劇中の言葉を借りれば、「自分自身が引きずり出される」ようなところがある。家福はもともとそれを感じているけれど、そうであるが故に自ら演じることを避けるようになっていたわけですけども。

自己開示のきっかけとしてもう一つ大きな要素が、自動車。車を運転した経験のある人ならわかってもらえると思うけど、車中……特に夜の車中で話すと、普段よりも深い話が出来てしまうような感覚がある。自己開示のハードルが少し低くなる。車中でチェーホフを繰り返し聞くことによって、ドライバーのみさきにも、少しずつ変化が表れていきます。

チェーホフと車。その二つが自己開示の土壌を作りつつ、最初のきっかけとなったのが韓国人夫婦宅での食卓だと思うんです。家福を家に招いたこと自体、夫婦にとってはちょっとした自己開示で、それでいて二人ともコミュニケーションに嘘がなかった。それで家福も心がほぐれたのか、本人の横でみさきの運転をほめた。社交辞令ではなく、心からの賛辞を彼女に送った。で、みさきはどうするのかなと思って見てたら、彼女は次の瞬間、犬と遊び始めた。あれは照れ隠しだとは思うんですけど、そもそも彼女は人から面と向かって褒められた経験もほとんどなくて、それによって喜びを爆発させる経験もなかったと思うんです。今までの人生で。だから、どうやって感情を表出させていいかわからなかった。それで犬に行ってしまった。と、僕は思ってるんですけど。

みさきは感情のベクトルを、褒めてくれた家福にではなく、犬に向けてしまったわけですが、それでもしっかり二人の関係性には変化が生じてきていて。会食帰りの車の中で、みさきはなぜ自分は運転が上手くなったのか、過去のエピソードをもとに語ります。もちろんそれは家福から質問されたからではあるんですけど、あの食卓でのコミュニケーションがなかったら、彼女はその話をしただろうか、と思うんですよ。家庭環境がすさんでいたという話だし、そもそも未成年が車を運転するのは法律違反だし、一定以上の信頼度がないと話さないような気がする。

そんな風にして、お互いの自己開示がちょっとずつちょっとずつ連鎖していく、その連鎖がご都合主義ではなく、非常にスムーズであることが、長尺なのに見ていて飽きない理由の一つかもしれないなと。

それ以外にも、自己開示のきっかけは映画のあちこちに散りばめられている。ゴミ処理の風景を眺めるのもそうだし、海辺に座るのもそう。一緒にタバコを吸うのもそう。決定打というほどではないかもしれないけど、たぶん補助的な役割は果たしているはずで。

後部座席に座った高槻が、家福に対してはちゃめちゃに自己開示するシーンがありますが、あれも「車の中」というシチュエーションに加えて、「夜の高速道路での安定走行」が後押しした部分はあると思うんです。同じ車中でも、下道で止まったり曲がったりしながら進むのと、等間隔にライトが並んでいて、一定のリズムでガコン、ガコンとつなぎ目の音が鳴るのとでは、やっぱり話しやすさに差が出るんじゃないか。もちろん決定打ではないけれども、「興が乗る」くらいの作用はあると思います。あの場面が高速道路というシチュエーションであることはたぶん偶然ではない。

一つはっきりさせておきたいのは、自己開示は「事件」によって引き起こされるわけではない、ということです。妻が急死したり、稽古中の俳優が逮捕されたり、ショッキングな事件は起こるけれども、それは自己開示と直接には結びついていない。それはたぶん、我々自身がそうであるからだと思うんです。そういうところに誠実に、この映画は作られているという気がする。

そうやって、自己開示がまた別の自己開示を呼び、そしてそれがまた新たな自己開示を……という風に自己開示の連鎖反応が起こっていくんですけど、それで最終的にたどり着いたのが崩壊した実家だと思うんですね。これはもう自己開示の「きっかけ」なんて生やさしいものじゃない。対峙した瞬間、きっと否応なく強烈な自己開示を迫られることになるであろう、中核的な、ラスボス的存在。

で、この映画はそういう「自己開示の物語」だなと思って見たわけですが、それに拍車をかけているのが俳優たちの演技。なんというか、役人物としてでなく生身の俳優たち自身もまた、自己開示しながら演じていたんじゃないか、という気がしたんですよ。

これは自分の勘違いの可能性も大いにありますけど、たとえば車の中で高槻が音のことを語るシーン。あそこで彼は涙ぐんでいましたけど、自分には高槻ではなく、岡田将生自身がマジで泣いているように見えたんです。演技をベースにしているけど、演技以外のものが演技を後押しして、あの迫力を出していたんじゃないかと。

終盤、「ワーニャ伯父さん」のラストシーンで家福が泣いていたのも、まああれは流れ的にも泣くシーンではあるのですが、でも演じているはずの西島秀俊自身がソーニャの「セリフ」にナチュラルに反応して泣いているように見えた。

「演技だけではないな」と確実に思ったのが、落ち葉の中で稽古をやるシーン。ひとしきり立ち稽古をさせた後、家福は「今、何かが起きていた」と言うのですが、あそこでは本当に「何かが起きていた」。「何かが起きていたっぽい演技」ではあのシーンは成立しないわけで、やっぱり演技以外の要素がかなり含まれていたんじゃないかと。つまりそれがいわゆる一つの「濱口メソッド」というやつなんでしょうけど。

劇中にもまさにそのメソッドを用いた本読みのシーンが出てきます。とにかく感情を込めない。その状態で繰り返し本読みをする。たぶんそれは棒読みが最終目的なのではなくて、「感情の鮮度」みたいなものを大事にしてるからなんだろうなと。「棒読みのセリフ」は何度も何度も練習するけど、「感情を乗せたセリフ」については一発録り的にやって、そこに俳優自身の生の感情が乗っかってくる……その結果として出たのがさっき書いた「マジとしか思えない涙」なんじゃないかと。

「自己開示の物語」に「俳優自身の生の感情が乗った演技」が加わることで、とんでもない、マジでとんでもない映画になっているのが、この「ドライブ・マイ・カー」だと思うわけです。で、そんな映画を見て自分はどう思うかというと、もうめちゃくちゃくるわけです。映画の感情の波が見ているこっちにまで押し寄せてくる。だから「映画」として割り切れるはずがないんですよ。めちゃくちゃ泣いたけど、映画館を出たら「さ、ねぎし食べにいこっか!」みたいになる映画(の存在は否定しないし、普通に好きなのですが)と違って、映画館を出た後の日常生活にも余韻を残してくる。それはつまり「自己開示の連鎖」を自分も受けてしまった、ということなのかもしれません。そこには恐ろしさみたいな要素もちょっとある。

でも突き詰めると、この映画ってそういうことかなと思っていて。

自己を映画から切り離して安全圏においたまま、「さすがは濱口メソッド、素晴らしいですなあ」と賞賛しても……まあそれは自由なんだけど、なんか違うなあという気がするんですよ。つまりこの映画の存在自体が「問いかけ」のようなものであって、そこによそから引っ張ってきたコメントやレビューをあてがっても、それはマイカーをドライブしたことにはならんと思うのです。その「問いかけ」に対して、「自分を差し出す」ようなところがないと。

だからこれ、すごく良い作品で、若いときに見た作品が上位に居座っている「人生の映画ベストテン」にグイグイ食い込んできてるところなんですけど、ちょっと怖くもあるんですよ。

まだ2回しか見てないけど、この映画を見ていると「自分にとって特別な時間」を過ごしているような感覚になるんです。いろいろ考えてしまうところはあるけど、たぶんただ画面に身を委ねているだけでも、特別な感覚を味わうことはできる。だから3回目も見ようと思っているし、時間と上映期間が許せばその次も見たいと思うんですけど、一方で、ある程度の自制心をもって見ないと、映画に引きずられちゃうんじゃないか。ある種の依存症のようなものになってしまうんじゃないか。みたいな怖さもちょっと感じたりしてます。たった2回観ただけで、なに依存症の心配してんだという話ですけど。

(Clubhouseで一人でしゃべった話をベースにしてまとめました)

【追記】
「この映画は自己開示の物語」と書いたのだけれど、本当のところは劇中で家福自身が言っているように「自分(の過去)に向き合う」なのだと思う。

しかし、なぜかこの映画では「自分と向き合うこと」と「(他者への)自己開示」がセットになっているように感じる。修行僧のように、ひたすら一人きりで自分と向き合うことも、やろうと思えばやれないこともないのかもしれない。しかし少なくとも家福に関しては、一人でそれをやることは無理だった。

「自分自身に対する自己開示」という言い方を用いれば、それは「自分と向き合うこと」とほぼ同じような意味になると思うのだけれど、でもこの映画での自己開示は、ほとんど他者への自己開示になっている。

ではその両者の関係はどういうものだろうか?と考えてみたが、だんだん思考が「ニワトリが先か、タマゴが先か」論争みたいになってきて、いやきっとそれは本当にニワトリタマゴ論争めいた関係にあるのかもしれない、と思うようになった。

自己開示できるから、自分と向き合うことができる。
自分と向き合うことができるから、自己開示できる。

この両輪がグルグルと回っていくことが、文字通り家福の人生をドライブさせていったのだろう。一つの映画をあまり聖典のように扱うのもアレかなと思うのだが、この両輪の関係性については、実体験的にもわりと腑に落ちるなと思っている。

【さらに追記】
「自分と向き合う」のが目的だとしても、いきなりそれを実践するのは無理で、その過程には自己開示が必要になってくる……という意味では、映画「プリズン・サークル」と通底するものがあるのかもしれない。「ドライブ・マイ・カー」における車内=「プリズン・サークル」におけるTC、みたいな。

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