存在がオシャレな人のオーラ

今日、彼氏と下北沢に行った。わたしは下北初上陸である。松浦亜弥の『ドッキドキ!LOVEメール』の「下北にも慣れた〜」の歌い出しを高校生の時に聴いてから、ずっと下北で古着を買うことに憧れていたが、その夢が叶った。クリスマスプレゼント(遅い)として、彼氏に古着のスカートを買ってもらったのだ。ありがとう大好き。

やっぱり下北はオシャレな人が多いと思う。歩く人がみんな下北らしいというか。すれ違う人がみんなハイセンスで、こっそりと目で追ってしまうほどだった。

わたしは、いわゆる「オシャレ」な人ではない。スタイルが良くないとか、色彩のセンスがないとか、そういう単純な問題はもちろん、「存在がオシャレではない」のだ。「存在がオシャレ」とは、シンプルな服を着ていてもオシャレに見えて、またその逆で、奇抜な組み合わせでもオシャレに見える、そういうことだ。きっとそんな人が、「存在がオシャレな人」なのだと思う。

それぞれ人間にはオーラの色があるとわたしは信じている。ちょっとスピリチュアルじみた話になっているが、みんなもちょっと感じたことがあるはずだ。この人は元気なイメージだから赤とか、あの人は落ち着いた雰囲気だから青、とか。わたしは最近パーソナルカラー診断にとても興味を持っているけれど、それはもしかしたら、個人が持つ「オーラの色」も関係しているのかもしれない。

例えばわたしは昔からピンクが好きだけど、なぜか黄色だのオレンジだのをイメージカラーとしてあてられる。だからだろうか。自分がイエベなんだかブルベなんだかわかっていないけど、自然と黄色の服を手に取ってしまう。そう、それがわたしの個性なのだと思う。わたしは黄色やオレンジの個性を放つ人なのだ。

対してオシャレな人というのは、これと言ったオーラの色を想像するのが難しい傾向があると思う。なんだか、どの色も使いこなせるというか、馴染むというか。その様子は色の魔術師であると言っても良い。素敵である。

面白いのは、そういう「オーラの色が絞れない人」が「オシャレな人」、つまり「個性的な人」であるということだ。自分のオーラの色は個性を表すものであるにも関わらず、特定のそれを持たない人は、周りよりもむしろ個性的になることに成功しているのである。だからわたしは、オシャレな人が心底羨ましい。

だけどわたしはこれで良い。似合う似合わないをうんうん考えながら、いやぁこれがしっくりくるなと黄色の服を手に取る流れが楽しいまである。たぶん今度彼氏に会う時は、買ってもらったスカートに、やっぱり黄色のトップスなんて合わせてしまうだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?