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第1節 「親友なのに、どうして――?!」



【1】 純物質な同僚との対話



 「親友であるかに会う頻度は関係ないだろ。」

やじりの如く鋭利な語気でそう彼女に言い放った瞬間、失敗したと思うと同時にその戸惑う表情を目にして申し訳なさが湧いたことを憶えている。


 あれはすじ雲のたおやかに揺蕩たゆたう秋晴れの昼下がり。午前中の仕事を予定より早くに終わらせた私は同じく時間に余裕の生まれた同僚の Simoneジモーネ とカフェオレ片手に他愛のないお喋りをしていた。すると、ある流れで親友についての話となり、「親友達とはここ3,4年程会っていない。」と口にした私に彼女は言った。

「親友なのに、どうして――?!」

私は知っていた、その言葉に裏がないことを。すなわち、暗に示した非難や嫌悪といった否定的要素がなく、純粋に疑問を投げ掛けているのだ。彼女は私の知る限りではあるものの、良し悪しはなく純物質のような人である。だから、言動の裏表に謀略を忍ばせて他者を陥れることもしなければ、複数の人格を巧みに駆使し他者を否定し利己的目的を満たすこともしない。そんな Simone が誇らしい。従って、先の疑問文はただ、わからないことをわかりたくて問うただけ。他意はない。

それを私は知っていた。知っていたのに、返したのが冒頭の言葉であった。一つ言い訳をするならば、彼女のあまりに至純無垢な知的関心がまぶしくて目がくらみ、思わず弓を引き分けた直後にろくに狙いも定めずに離してしまった次第だ。



【2】 幸い



 私には幸いに親友が何人かいる。相手にとって私がそうであるとも限らないが……。その一人一人について、すべてを言葉に表すことはし得ない。私にはそれ程の語彙と表現がない。それにそもそも、人は自己をさえすべては理解し得ないのだから、まして理解し得ない他者をそのすべてを理解した体で記述しようなど、おごりが過ぎる。

ふと、愛読書の一つである小説にならい、親友のイニシャルだけでも示そうとも考えたが「よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。」










第2節 私にとって、親友とは何か。



【3】 親友とは?《記述と定義》



 私にとり、親友とは何か。折に触れて考える。


 それは相手に背負われて綱渡りできる人でもあるし、相手のためであれば預金残高の半分を費やすことができる人でもある。また、互いに臓器移植できる人である。(医療の進歩により昨今は血縁でなくとも、例えば夫婦間でも臓器移植が可能となったらしい。NHKのテレビ番組「クローズアップ現代」で知った。)


 ただし、お察しの方もいただろうが、このような説明はあくまでも「親友は〇〇だ。」という記述であって、その定義ではない。牛乳に例えるならば、「牛乳は最愛。」「牛乳は至高。」「牛乳は美味しい。」といった記述であり、「牛乳とは〇〇だ。」といった定義ではないのだ。




 そこで続いては親友の定義を考えてみたい。「親友だと思う人が親友」という直感による部分が大いにあるが……。


 あくまでも私にとってだが、それは心身を委ねることができる人かもしれないし、対等、かつ、信じ愛し合う関係性かもしれない。大分本質に近付いてきたように感じる。しかし、願わくば、より端的かつ簡潔に、より短い言葉で表したい。



【4】 信仰と似て非なるもの



 「信仰」という案もあった。親友は金にもならなければ、パンや水にもなりやしない。つまり、物理的には何の役にも立たない。ただ、それにより私は安心する。信仰と似ている。さらには上に親友とはここ数年会っていないと書いたが、それどころか連絡もしていないし、どこで何をしているのかも、その生き死にさえも精確には知らない。そうであればますます、信仰と似ている。実際、このエッセイの元の題名は「私にとっての親友、或いは信仰について」であった。


 しかしながら、親友は信仰ではない気がする。

相違としてはまず、前者は後者とは違い、絶対的に信じ肯定するものではない。確かに心身を委ねられる存在ではあるものの、委ねることと何でも無条件に受け容れることは異なる。仮に親友がそうだと主張しても太陽は西から昇りはしないし、その人が私を殺そうとするならば、私は初めに抵抗を試みるはずだ。

次に親友は信仰、或いは神仏とは違って実際に存在する。だから、それに触れて、その体温や息遣いを感じることができる。たといその死後であっても、この世に生まれた以上実在する。ちなみに私はいわゆる信仰を持たない、無宗教者である。(信仰観・宗教観については人それぞれ様々あるだろうから、異論は認めまくる。)

従って、親友は信仰とは似て非なるものだ。



【5】 親友とは安全



 結局、私にとって、親友は【安全】だと思う。これはあくまで作業仮説としての、つまり現段階においては最もしっくりとするが、この先変化し得る仮説としての定義である。


 安全。それは安心そのものではなく、安心の前提として必要なもの。そして、安全とは何かを少し深掘りすれば、きっとそれは『否定されないこと』であるように思う。否定されない対象は「私」のすべて、あらゆる構成要素であって、それは命や健康・心身であったり、思考と行動であったり、及び、過去と現在と未来を含む時間と経験や、その他であったりするのだろう。それらを否定されないことが安全なのである。

無論、否定されないことは絶対的に信じ肯定されること、受け容れられることではない。だから、仮に私がそれを唱えても親友が陰謀論を信じるとは限らないし、私がその眼前で今にも自死しようとするならば、その人は初めに制止を試みるはずだ。


 そのような意味も含めて、私にとり、親友とは安全である。









第3節 最近、考えること



【6】 私は親友を死なせるのか。


 最近、考えることの一つが『親友にそれを求められた場合、私はその人を死なせるのか。』


 わからない。その状況にいなければわからないし、実際、そこにいても思考は果て得ず、答えは永遠に理解し得ないと思う。



【7】 のぞ



 末筆ながら、本当の希みの一つはどうか、親友のすべて一人ひとりと最期にもう一度逢うことを希求する。





【全人受胎】







私が自殺を遂げる前にサポートしてほしかった。