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*5つすべてが今は昔に永久凍結した自身のtwitterアカウントからのコピペです。(一部加筆・修正あり)

*なお、ツイート相互の関連はありません。


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 私は何をどのように頭で考えたところで無駄なんだよ。

 考えた通りに体が動かないのだから。



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 私の脳には遂行機能がない。

 パソコンに例えるなら、ENTERキーがない。

   遂 行 す る た め の

     キ ー が 「 な い 。」


 だから、たとい何をするかを理解し、方法も計画もあり、必要な物も知識も経験もあり、やる意思も時間も体力もあり、遂行の条件をすべて満たしても…… 遂行できない。遂行キーがないから。


 何もできない。

 何も遂行できない。



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 私は幼い頃、構音障害だった。幼稚園年長のとき、担任が気付いてくれた。「か・さ・た」行の音が上手く発音できなかったので、自分の名前さえ言えなかった。
 その後、年長~小1のおよそ1年間に渡り言語聴覚士による通級指導を受けた。(週2日・午前中の2時間/回とかだったと思う。) 「ことばの教室」という名の小さな一室で「せんせい(*言語聴覚士であるその年配の男性を私はそう呼んでいた。)」と机一つを挟んで向かい合いながら、一対一で、発音を一つひとつ訓練・矯正していき、最後には生活に支障がない程度の発音を身に付けた。


 それから20年近くが経った初めての就職ののち、発達障害の一種 ADDと診断された。

 そのときは一時期、幼稚園から大学までに自身と関わった先生方をある種憎んだこともあった。「なぜ、発達障害に気が付かなかったのか?」と。お世話になった教員の中でも特に構音障害の可能性を指摘した年長時の担任に対して、この恨めしい思いを私は強く持った。もしも、言語障害が明らかとなったあの時点に ADDも診断されていたら、私の人生は大いに違っただろうに…… 。と、無駄を知りつつも考えあぐねたものだ。


 しかし、平成も初めの当時、発達障害の認知度など一般的には全くのゼロだった。また、幼稚園を始めとする教育現場においてさえ、今日よりもずっと低かったのだろう。それを考えれば発見できなくて仕方がないし、構音障害が小学校の学習開始前に見つかっただけでも有難いことである。


P.S.

○ちなみに親によれば、私は3歳になるまでほとんど全く話さなかったらしい。それが話し始めたその頃から、急に滝のように多弁になったとのこと。

○構音障害による発話語彙の制約のため、当時の会話では常々「言い換え」を駆使していた記憶がある。言えない言葉を言える言葉に置き換えるのだ。この自ら編み出した代替処置のおかげで語彙が爆発的に増えたのだった。



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 IQ検査は例えるなら「スポーツテスト」のようなもので、以下の3点において両者は共通している。

 ①そのときのコンディション
  (心理状態を含む)により、
  結果が異なる。

 ②年齢やトレーニングによっても、
  結果が異なる。

 ③「検査の結果」と
  「実際の能力」は異なる。

 ついでに書いておくと、職安等で利用可能な「厚生労働省編 一般職業適性検査」も上の3点が共通しているのだろう。



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 発達障害の診断のために WAIS等の検査を受けるかどうか迷う君へ、一言だけ。

『君が検査結果の在り様を決めることはできても、検査結果が君の在り様を決めることはできない。』



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P.S.

「希望を持て。」

「努力せよ。」


 私が私にいう。

 生徒には決していわない言葉を。


 希望を示すことも努力の方法を教えることも、学校教員の仕事だと思う。


【 お し ま い 】





私が自殺を遂げる前にサポートしてほしかった。