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 生まれた時点で人生の半分が決まっている。

 生まれてから死ぬまでのすべてを1ダース(=12個)のチョコレートに例えると、そのうちの6個が先天的ということだ。その内訳は3個が遺伝で、もう3個が家庭環境・出自である(例:家族・兄弟の構成、家庭の経済的/社会的ステータス、親の愛情・能力・知性・寛容さ、および 出身地 etc.)。
 繰り返しになるが、すなわち、生まれたそのときに人生の半分が決定している。もちろん、それらの要素に関しては努力を行使し得ない。

 次に残り半分の6個について、これらは後天的だが、うち5個に対しては努力を行使できない。その5個の中身は1個目が中学校卒業までの出会い(幼なじみ、担任の先生、同級生、部活仲間、地域の人々 etc. )、2個目が自らの生きる社会状況や時代背景、3個目が傷病、4個目が事故・事件・災害、ラスト5個目が(自身のものを含む)人の生き死に・寿命である。

 ここまでの11個を決めるのは唯一、「運」のみだ。したがって、人生の12分の11は努力を行使し得ない。

 そして結局、人が努力を行使できるのは一生を通じた経験のうちの12分の1である。けれども、この1個に関しても、努力が報われるとは限らない。ただ、行使した努力が報われ得るというだけだ。努力は必ずしも報われない。(もしも、努力が必ず報われるのならば、生活保護を始めとする社会保障は一切必要ない。なぜなら、あらゆる困難を当事者の努力によって解消できるからだ。)

 何度でも書く。「努力は必ずしも報われない。」

 人生とは、上で述べたように、努力を行使できる範疇(これを言い換えれば、自らの裁量)がたったの12分の1にも関わらず、それ全体により生じる苦しみを「すべて」負わざるを得ないというあまりに不合理なものだ。故に生きることは苦しむことであり、本当に死にたい場合も少なくない。常に希死念慮とともにある人も多いだろう。


*努力についての補足2点

①努力の有無や程度は証明し得ない。
(平たく言えば、努力は目に見えない、見えるのは行動や結果等であるということ)

②(努力が行使可能な12分の1についても、)努力する意思の如何に関わらず、努力し得ないケースがある。

 つまり、この努力可能な自らの裁量において努力できるか否かを決めるものもまた、運なのである。(「やる気さえあれば、誰でもどんな状況でも努力できる!」とか、「努力できないのは意思がないからだ。」というのはフィクションだ。そのような誤りを盲信し、意思と努力を直接的に関係付けるのはいい加減やめよう。そもそも、意思なんて存在するのか。)


【 お し ま い 】





私が自殺を遂げる前にサポートしてほしかった。