#8 家族愛に恵まれなかった子ども時代、そしてラグビー仲間との出会い
おばあちゃん子だった黒崎の少年時代
拝啓。ごきげんよう。
黒崎事務所、秘書のヒショッチです。
今回は、黒崎さんの幼少期や生い立ちについてインタビューをしていきます。
このnoteの第2回では、小学校入学と転校、そして政治家への夢が芽生えた瞬間などについて触れてきました。小学校入学以前の出来事や家庭環境など、もうちょっとプライベートに迫ることを聞いていきたいと思います。
■物心つく前に父が亡くなって祖母が親代わり
--黒崎さんってどんな幼少期を送ってきたんですか?
「私は実の両親の元で育っていないんです。実父は、私がまだ物心がつく前に亡くなっています。その後、母は旧姓である黒崎に苗字を戻し、当時、世田谷にあった母方の実家で暮らすことになりました」
--黒崎さんが育ったのは、母方のご実家だったのですね。
「はい。この母方の祖父というのが、ミニクーパーやベンツの外車の輸入代理店、自動車の内縁機関の工場、さらに不動産業と手広く事業を成功させて、一代で家業を作り上げた人でした。オイルショックの際に、輸入代理店の権利をヤナセに売ったと聞いています。いまでも黒崎内燃機といえば、車好きやレーサーの人は知っているかもしれませんね」
--昭和歌謡や和菓子が好きなのは、おじいちゃん、おばあちゃんとご一緒に住んでいた影響なのでしょうか?
「そうなんです。僕はおばあちゃん子でしたからね。一代で商売を成功させた祖父なのですが、忙しさが祟ったのか脳溢血で倒れてしまい、僕が物心ついたころにはすでに入院生活となっていました。実母はまだ若く、働いていたこともあって、祖母が親代わりだったんです。
小さい頃のことを思い浮かべると、ずっと祖母とふたりでいたような印象があります。一緒に時代劇を見て、演歌を聞いて、餅菓子を食べて…。私がいまでもその3つが好きなのは、祖母と過ごした幼少期の影響ですね。完全におばあちゃん子でした」
--ほほお。おばあちゃんって、孫を甘やかしがちですよね!?
「はい。そうなんです。わがまま放題に育てられていましたね。祖母としては不憫さもあったのかもしれません。転校前の小学校である成城学園初等学校への通学は車で送り迎えされていましたし、週末には毎週のようにステーキを食べたりしていました」
■小学3年で叔父の養子に
--小学校3年生で養父母となる家に引き取られたとのことでしたが、どういった経緯があったのですか。
「育ての親となる人は実母の弟で私の叔父にあたる人です。引き取るきっかけのひとつは、実母に再婚の話があったことです。
それから、祖母の私への接し方を見てきて、『このまま祖母の元で甘やかされて育てられていてはダメな人間になってしまう。厳しく育て直さなければ』と叔父は思い、引き取ったとのことです」
--母方の叔父さんに引き取られて養子となり、一気に生活環境が変わったのですね。
「祖母に甘やかされ放題だったところから、一瞬にしてそれまでとは真逆の環境になりました。
実母とも2度と会わせないといった話にもなりました。会うと里心がついてしまうというのが理由だったのだと思いますが、結局いまに至るまで、実母と会ったのは祖母の葬式だけです。
養父としては、私を一から鍛え直さなくてはという意識があったのだと思いますが、いやあ、厳しかったですね。聞くも涙、語るも涙というほどの育て直しでしたね」
--星一徹を彷彿とさせるようなド根性な感じだったのでしょうか?
「そうともいえますね(笑)」
--でも、その養父の影響で、ラグビーを始めたのですね。
「そうです。非常に厳しかった養父ですが、ラグビーに出会ったのも、続けられたのも養父のおかげです。もっとも、ラグビーをやめるなら家から追い出すと言われていたのもありますが(笑)。
正直、養父の家に引き取られずに甘やかされて育っていたら、どんな人生になっていたか分かりません。今の私があるのは、養父の家に引き取られて厳しく育てられたことと、ラグビーに出会い続けてきた結果であるのは確かです」
独立独歩で生きてきた成人以降
■政治の道に進むなら「敷居を跨ぐな」
--黒崎さんが政治家になることができたのは、金銭的に余裕のある実家のバックアップがあったからだと噂する人もいる…と耳にしたことがあるのですが。
「政治活動に関しては、養父からの経済的なバックアップは皆無なんです。政治の道を目指すと決意したときに挨拶に行きましたが、真っ向から反対され『その道に進むのならば、二度と黒崎家の敷居を跨ぐな』と言われました」
--応援どころか、むしろ逆だったのですね。
「はい。叔父には社会に出るまで、学費や生活費だけでなく、学生時代にはラグビーのために自宅でウエイトトレーニングができるよう整えてくれるなど、金銭的な面を含めて大きくバックアップをしていただきました。
しかし、子を独り立ちさせるという点においても、叔父は厳しかったですね。でも、その厳しさのおかげで、社会を生き抜く力がつきました。
大学卒業以降は、言葉通り、独立独歩でやってきました。
特に、政治の道というのは私個人が選んだ道であり、金銭的な面でも、養父をはじめ黒崎家とは関わりのない形で、個人の力でやってきたと自負しています」
■ラグビー仲間が家族のような存在だった
--そうだったのですね。ところで、生い立ちや育ちに、家族的なものに恵まれていなかったということは、黒崎さんの「スポーツを通じて次世代の子どもたちを育てていきたい」というテーマに影響しているのでしょうか。
「はい。影響しています。私が道を踏み外さずに生きてこれたのは、やはりラグビーに出会い、その中で成長できたからという確かな実感があります。
ラグビーの仲間が家族代わりであり、他の人が家族生活から学ぶことも、ラグビーを通して、先輩、同輩、後輩たちから学んできたと感じています。
この自分自身がラグビーでスポーツで救われたという体験が、これからの子どもたちが、つらいことや人生に迷うことがあっても、踏みとどまって成長していくことができる場所を作りたいという想いに繋がっているのです」
黒崎祐一がどのようにして育ってきたか…。
今回はこのような内容に触れてみました。
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ぜひ、こちらも足をお運びいただけると幸いです。
最後までお付き合いただき、ありがとうございました。