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インドネシアの島めぐり27日目 モロタイ島に入る。

テルナテ島からモロタイ島にウイングスエアの飛行機で移動する。
双発のプロペラ機で50分かかる。


外国人がたくさん乗っていた。通路を挟んで横に座っているフランス人に聞いたら、サーフィンをするのにいいところらしい。彼は1ヶ月滞在する予定だと言っていた。
「後で浜で会おうな」と言われたが、わたしは浜には多分いかないし、明日はハルマヘラ島にわたる。

モロタイ島は太平洋戦争の重要地点だった

モロタイ島は第二次世界大戦で連合軍の本格的な反攻が始まった場所の一つになっている。
連合国側は、モロタイ島を足場にフィリピン奪還を行うため、この島に作戦本部を置き指揮官のマッカーサーもこの島に一時期いた。
すでに日本は制空権と制海権を失っていたとはいえ、日本軍が真横にいる最前線に大将自ら乗り込んでいたのはすごい。

オーストラリアに退却していた連合軍は、パプア北岸を奪取し、次にモロタイ島とペリリュー島をピンポイントで取り中継ポイントにした。そこからフィリピン奪還がスタートする

すぐ隣のハルマヘラ島や、そこから西も南も日本軍が占領しているのに、それらには目もくれず、モロタイ島だけを日本の100倍の戦力(500名の守備隊に対し50,000の兵力を投入)をかけて全力で奪い取り、そこに大量の物資と人員を投入していくつもの飛行場や病院まで作った。日本が何ヶ月もかけて作れなかった飛行場をたったの2週間で作ってしまったらしい。
アメリカらしいやり方だ。

隣のハルマヘラ東岸も含めこの辺りは戦争関連の史跡や、座礁した船の残骸が見られる場所になっている。戦力差がありすぎて、とても激戦とは言えなかった戦場だ。

港で夕陽を見ながら地元の若者と話しをしていたら、広島と長崎に原爆を落とした飛行機はモロタイ島を経由していったんだと言っていた。おそらく間違えた情報だが、戦争当時の話を学校でか、地元の長老経由でか、色々と聞いて学んでいるらしい。
中村輝夫の話も聞いた。中村氏については、明日のNoteで記載する予定だ。

今のモロタイ島の様子

わたしはホテルを予約していなかった。予約サイトは全て高い価格しか出てこないし、町中から外れたビーチ沿いのホテルばかり出てくるからだ(後になってわかったのだが、ハルマヘラ島のトベロに行くフェリーはむしろ町外れのビーチ沿いの方が近い)。
空港でタクシーを捕まえて、空いている安めのホテルに連れていくようにお願いしたところ、Hotel Pacificという名前のホテルを紹介してくれた。

とても綺麗で庭の様子も感じがよく気に入ったが、朝食付きで275,000ルピア(2750円)と高い。

わたしのスマホはインドサットのためこの島では電波が弱く使えない。地図も見れないし他のホテルの場所も探せない。手足をもがれたようなものだから、そうそうに交渉を諦めて宿泊をお願いすることにした。

明日ハルマヘラ島のトベロに船で渡る方法、時間を教えてもらう。船は14時発らしい。

モロタイ島を観光しようとオジェックを探したが、この島にオジェックはいないようだった。代わりにシクロを自転車からバイクに変えたような乗り物があり、町中をたくさん走っている。

運転席の前に2人座れる幅の椅子が置いてある

わたしは中村輝夫の銅像まで行ってもらおうとしたが、遠すぎると断られた。戦争ミュージアムも同じだ。
仕方ないのでレンタルバイクだと思い、町に一軒しかないレンタルバイク屋に行ったら、全部貸出中で夜までないという。

なかなか思い通りにいかないけれど、不便ということは町の素朴さが残っている証拠とも言える訳で、わたしは今日は遠出は諦め、歩ける範囲をぶらぶらした。

港に行ってみると、これまでで一番くらい閑散とした雰囲気だった。この港は町の中心部にあり、スピードボートで島々を見にいく時の乗り場だそうだ。

港の手前の交差点

スピードボートのチャーター代は100万ルピア(1万円)と言っていた。
他に大きな船が停泊しており、聞くとテルナテ行きだった。

この時間から島に出かける観光客はいないのだろう。同じ北マルク州でも、テルナテ島やティドレ島のようにスピードボートを島の人々が移動手段にすることはないようだ。港にいる人々は、何をするでもなく日陰でボーとしていた。

ドドラ島という潜ったりシュノーケリングをするのに良い場所があるようで、行かないかとスピードボートの船員から勧誘を受けた。他にスムスム島というマッカーサーの銅像が立っている島もあるそうだ。
人々はとてものんびりしており、営業活動に全く力が入っていない。わたしが興味がないとお断りすると、ふーんそうなのと言った感じであっさり引き下がっていく。

時間がゆっくり流れている雰囲気の良い島だ。
信号はなく横断歩道もない。今のところコンビニもスーパーも見ていない。ロテ島並みの田舎っぷりだ。

夕方の海辺で地元の子供たちの海水浴を見学する

昼寝から起きて、夕日でも見るかとホテルの前の小道を海に向かって降りていくと、そこには砂浜はなく、低い岸壁があった。
そして子供だけでなく大人まで、服を着たまま海に浸かり、時には飛び込んだりしながら海水浴をしていた。
明るく人懐っこい人たちで、とても楽しい気分になる。おまえも入ればいいのにと誘われて、「もうホテルでマンディー(沐浴)したんだよ」というと、あっそうという感じであっさりしている。

わたしのリクエストに応じ、子供たちは思い思いのポーズで飛び込んでいく
子供たちの目はキラキラしている

そのまま岸壁のヘリをはじまで歩き、桟橋まで行き着く。
わたしは陽気な人々と挨拶を交わしながら、さらに桟橋の突端まで進み、そこに停泊していたテルナテ島行きのフェリーを近くから眺めてみた。

夜出港し明日の朝にテルナテに着くというので、まだ時間はあると思い船に上がって中を見学させてもらう。
普通席は250,000ルピア(2500円)で、幅60センチほどの区切りがあるベッドをひと区画もらえる。一等席は個室だ。個室料金400,000ルピアを250,000ルピアに追加して支払う。
混み合っていなければ船旅も楽しそうだ。

わたしが色々と質問していると、突然日本語に切り替えて話しかけてきた人がいた。
聞くと、彼は18年日本にいたことがあり、マグロ漁船で働いていたそうだ。会社は八重洲にあり、わたしはインドネシア人の口から「八重洲」という単語を聞くのは初めてで驚いた。普通はせいぜい新宿とか秋葉原までだ。

東日本大震災をきっかけに、家族から帰ってこいと説得されインドネシアに戻ってきて、今はモロタイ島ーテルナテ島を結ぶフェリーの船長をしている。
確かにしっかりした顔つきのおじさんだなとは思ったけど、このサンダル履きのTシャツおじさんが船長だったのかとちょっと驚いた。

さらには彼はバンドン出身でスンダ人でもある。船員でスンダ人は1人だけだと言っていた。両親と家族をバンドンに残して1人で頑張っている。
仕事は年に一回しか休みがないそうで、6月に2週間休みをもらえるのでバンドンに帰るんだととても楽しみにしていた。

わたしは操縦室見学のお礼を言い、下船して夕陽を眺めた。

十分に夕日を堪能し、ホテルに戻るかと陸を振り返ると、そこには見事な虹がかかっていた。

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