孤独,マイナス,事実とその他

 人間は大体において孤独であり,プラマイゼロな存在で,事実とその他をないまぜにして生きている。そう考えるようになっている。心身が限界を迎えたあの日から1年が経った。この1年で私に起こったのは「孤独,マイナス,事実とその他」にまつわる認識の変化で,それがちょっとだけ力を与えていくれているように感じる。

 家族がいようが恋人がいようが,多くの友人がいようが,SNSのフォロワーが多かろうが,人が本質的には孤独であるというのはそうそう変わらない。孤独というのも,実際そんなに悪いもんではない。「選んだ孤独は良い孤独」みたいな言葉だってあるくらいだから。
 そして,人は本質的に孤独だが,完全に孤独な存在というわけでもない。「影の努力は必ず観てくれる人がいる」とかいうような慰めの意味ではない。完全な孤独も,完全な連帯もない。

 マイナスをプラスに戻そうとするのは非常に骨が折れる話だ。ストーブは点火の時に,車のエンジンは発進時に,特に大きなエネルギーを要するのと同じで,ゼロからのスタートというのは常に大変なのだ。それがマイナスからゼロ,そしてプラス,というのはそりゃあもう膨大なエネルギーが必要になる。「来た時よりも美しく」なんてのはもはや令和世代(マーケティングの世界ではZ世代と呼ぶらしい)の誰にも刺さらない標語になりつつあるのではないか。彼ら彼女らはきっと,マイナスをプラスにすることの難しさと虚しさを知っているだろうから。ゼロでええねん,ゼロで。

 私が1年前に一月半ほど仕事を休んだのは事実で,休んだことで多くの人に心配と迷惑をかけただろうなあ,というのは感想だ。なのだけど,私はいまだにその事実と感想,事実とその他の切り分けを上手にできないでいる。目の前の事実への過大評価,あるいは過小評価。いろいろ考えすぎているのか,考えなさすぎているのか。
 まあでも多分,「切り分けられてないなあ」というのが一つの変化であり福音なのかもしれない。少なくとも「プールの水が一滴混入したワイン」を「これはワインじゃないと思うんだよね」と言えるようにはなりつつあるのだから。「まあ,飲むんだけどね」

 孤独もマイナスも事実とその他は,直接的な何かではない。
 私の日々を駆動するのは単純な生命維持の活動とその時の気分と思いつきでしかない。孤独とマイナスと事実とその他は,ちょっとだけそこにいてくれている。ありがたい話である。