国語教材の「ノイズ」

 『いっぽんの鉛筆のむこうに』。一部の国語の教科書(確か東京書籍だった)にも掲載されている、有名な本である。文を書いたのはあの谷川俊太郎。いっぽんの鉛筆が作られ、それを使う人の手元に渡るまでに多くの人が関わっていることを、現場の写真と微かな緊張感を漂わせる谷川の文章で伝えてくる。「ポディマハッタヤさん」の名前で記憶している人も多いかもしれない。彼は最近亡くなられたと聞いて、悲しく思ったことを覚えている。彼は鉛筆の芯の原料である黒鉛を掘る人だった。
 私は、この本が国語教材ノンフィクション部門の中では抜群に素晴らしい教材であると思っている。なぜなら「ノイズ」となる情報があまりにも多いからである。「鉛筆が作られ、消費者の手元に渡る過程」を描くだけではないのだ。本書はドキュメンタリーとしての側面が非常に強く、そして何より、あまりに文学的である。

 黒鉛を掘り出すポディマハッタヤさんの他にも、木材を切り出す人、それを大型トラックで運ぶ人、製材された木材を運ぶ大型タンカーの料理長、鉛筆に加工する工場で働くお母さん、学校近くの売店のおばちゃんが登場する。それらの人々の仕事ぶりと共に、必ず描かれるのが彼ら彼女らの家族のことである。休みの日に子どもと何をして遊んでいるとか、子どもが描いてくれた自分の似顔絵だとか、家族からの手紙や写真だとか。鉛筆作りの過程の中に突如差し挟まる一家団欒の風景。鉛筆づくりの事実だけを、過程だけを伝えるのであればそれらは本来不要な情報なのだが、この家族のエピソードが入ることによって、工業製品に通う血、温かみが鮮やかに、実感を伴って立ち上がってくる。
 直接的に関わる人だけではない、その背後にいるたくさんの人たちの存在を描くことによって、鉛筆をただの筆記具としてではなく、「ちょっと特別なもの」として示す。ほんの少し、世界の見え方が変わる。ドキュメンタリーの教材として、やはり抜群である。

 そんなわけで、鉛筆作りに携わるたくさんの人が紹介されているわけだが、その中で唯一、日本の子ども達にメッセージを残してくれているのが、他ならぬポディマハッタヤさんなのである。自分の掘り出した黒鉛が鉛筆になり、勉強に使われ、日本の発展に貢献している、そのことが嬉しい、と。

 本書のタイトルは『いっぽんの鉛筆のむこうに』。「一本」でも「1本」でもない。その鉛筆は、血の通った人間、読んでいるあなたと同じ人間によって作り出されているのである。

 ということを授業で扱うかどうかはまた別の話である。