思い出補正を超えられない

茜色の夕日眺めてたら
少し思い出すものがありました

フジファブリック『茜色の夕日』

 大体人間の記憶はあやふやで頼りなく、とんでもなく強固で確固たるものなので、“思い出補正”という言葉が生まれるわけです。世間一般の評価や「常識」とされる観念でさえも太刀打ちできないのがこの“思い出補正”であり、時に要らぬ軋轢や誤解や摩擦を生み出すこともありますが、おおむね人はこの補正からは逃れ難いのではないだろうかと考えています。

 フジファブリックの代表曲の一つ、『若者のすべて』が好きです。“真夏のピークが去った”という歌い出しを重大に受け取るあまり、夏真っ盛りの時期にこの曲を聴くのは邪道であるとして、盆過ぎくらいの朝夕に涼しさを感じる頃になるまではこの曲を聴かないことを自分に課しています。そして“真夏のピークが去った”らば、ずっとこの曲を聴いています。
 北海道でも記録的な猛暑になった2023年の夏、北見市も真夏日に迫ろうかというある日の昼に、ラジオから『若者のすべて』が流れました。「真夏のピーク」の「昼」です。この曲の歌詞を読めば、全く正反対の状況下であることがわかりますが、ラジオからはこの曲が流れるのです。どうかと思いましたが、そんなことを考える自分の方こそどうかと思われるのではないでしょうか。

 ここからは、この曲と分かち難いものになっている“思い出”の話です。この曲にかかっている“思い出補正”について、あるいは私が過去のどの地点かに縛られていることについて。

 私には、敬愛する先輩がいます。彼と巡り会えた、同じ職場で時間を共にしたことは、私にとって一生の財産であり、今後の人生であと何回、そんな出会いがあるのだろうかと思うことがあります。たくさんのことを語り合いました。あくまで私の思い出の中で、という注釈は付きますが、授業のこと、学級経営のこと、児童のこと、あるいは私のうだつの上がらなさをネタにしたり。「今日はこんな授業をやってみたんです。どうっすか。」と話しかければ、褒めてくれました。「マエダ、算数のことはしょうもない話しかしないのに、国語になると途端に生き生きするな。」と笑ってくれることもありました。年齢が近いだけでなく、きっと教育観(のようなもの)も近かったのだと思います。どんなことでも話したり打ち明けたりできる気がしていました。そんな彼が、酒席でよく歌っていたのがこの『若者のすべて』でした。「いい曲だよな。」と。
 それほどまでにかけがえのない存在だったのですが、彼はある事情で北海道を離れ、本州の学校に勤務することになりました。

 精神的支柱だった彼が職場を去った翌年のある冬の日、私は出勤直前に体が動かなくなり、2日間欠勤し、抑うつと診断され数ヶ月の療養期間に入りました。抑うつのどんよりとした雰囲気が少しずつ晴れて、職務に復帰こそしましたが、彼はもういません。幸運なことに、私のそばにはいろいろなものが残ってくれていました。毎日の家事を遂行するだけの気力。新たに与えられた仕事についての意欲。妻が職場で受けた理不尽な処遇に対しての怒りも、ちゃんと残ってくれていました。
 そして『若者のすべて』と、そこから道を遡るようにして思い出される彼と彼にまつわる思い出も、ちゃんと残ってくれていました。“思い出補正”という言葉がこの場合適切なのかはよくわかりませんが、単なるいちバンドのいち楽曲が、どうしても無視し難い大きな意味と物語と色彩、質量、響きをもって私に迫るようになりました。
 抑うつなどの精神疾患では、そのきっかけとなる経験に紐づけられた諸要素までもが、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の理論で嫌になってしまうというのはよく聞く話です。つらい期間に聴いていた曲は、もう曲名すら耳にしたくない、という。
 私に起こったことはその逆とも言える現象でした。特に紐づけられているわけではないけれど、抑うつという荒野にぽつんと咲いた花のようにして私の前に現れたのが『若者のすべて』だったわけです。

 ギター/ヴォーカルでありソングライター、まさにバンドの中核だった志村正彦氏を失うという、バンドとしては致命傷を負ったフジファブリックですが、その後も活動を継続し、今もなお新曲を発表し続けています。しかし、聴き手である私はどうにも過去の記憶に引きずられており、なんだかなあと煮え切らない。自分の職務における心の拠り所である彼が遠く離れてしまい、ぐでぐでと泥濘の中を這う。今もその影に引っ張られています。
 それでもやっぱり今年の夏の終わりにもまた『若者のすべて』を聴いて、彼のことを思い出すのでしょう。“思い出補正”から抜け出せないまま、それでも再会できる日を夢に見ながら。

同じ空を見上げているよ

フジファブリック『若者のすべて』