「子どもに委ねる授業」とは

 ここ最近はどうにも文章を書けておらず、なんだかなあという感じです。「書けない」状態に陥ったのは今までもあったのですが、陥るたびにガッカリしてしまいます。
 そんな中である協議会に参加しまして、そこで語られたのが“子どもに委ねる授業”という新しいようでそうでもないワードです。近頃の教育トレンドがこの方向に傾いていることは肌感覚で薄々と感じていたのですが、参会して話を聞いて「ああこれはかなり方向性として固められとるな。」と思った次第です。

 このワードの新しそうでそうでもないポイントについて考えていますが、結局は毎回同じ結論に至るので、陳腐ですが歴史は繰り返すんだなあという思いです。「これまでもあった営為に改めて名前をつけて整理する」という。
 学校教育というのは結構その時その時の流行というか潮流があります。その流行初期にはいくつかの学校が「研究指定校」や、それに類するものに選定され、予算や人員を与えられ、実践を重ねていきます。そこで得られた成果や課題が他の学校に周知・共有されて、一般的なものになっていきます。記憶に新しいところだと「GIGAスクール構想」なんかがこれに当たるかなと思います。児童生徒一人ひとりにパソコン/タブレット端末を貸与して教育活動に活用するというアレです。コロナ禍で実施が大幅に前倒しされたものの、これとて先行して実施していた学校で蓄積された知見が、他の学校の役に立っています。
 そういうわけで、今日もまたこの日本のどこかで「子どもに委ねる授業」についての知見が積み上げられているのだろうなと思います。

 ただ、こうやって積み木を高く積んでいくような営みはずっとずっと、これまでもいろいろなところでいろいろな人たちが続けてきたことなのです。そこに“タンツラ”とか“教えて考えさせる”とか“個別最適”とか“主体的・対話的で深い学び”とか、そういった名前がついていなかっただけです。積み木を積むことですから、何か新しいものを創り出しているわけではありません。今まであったものを、ちょっと違った形で積み上げる。時折、ICT機器のような全く新しい積み木のパーツが追加されることはあっても、基本の形はしばらく変わっていないのです。
 つまり私たちは、学校教育という営みの中で、それなりに子どもたちに委ねてきたんだと思います。これまでも、そしてきっとこれからも。そうだといいなと願っています。

 そういう意味で、“子どもに委ねる授業”は、おそらくスローガン以上の意味をもっていないのでしょう。新しい何かではない、授業論でもない、授業手法でもない。そうなると待っているのは(あるいは真に求められているものは)“子どもへの委任”についての具体化や具現化に向けた周辺的で地味で、遠回りにも見えるあれやこれやなのでしょう。
 しかし、それこそが学校教育教員にとっての専門性なのだろうと思います。目の前の児童生徒に対してどのような形で委ねることができるのか。単なる知識及び技能の伝達ではない何か。それは、ブラックだやりがい搾取だ低倍率化だ志望者数が増えるはずもない、などと散々にこき下ろされているこの仕事に残った福音の一つだろうと信じられるのです。少なくとも、私には。

 そして、最後の壁はきっと“子ども”や“子どもたち”になるのだろうなと思います。子どもは、子どもたちは、「授業の行く末を委ねよう」とする私たちからのパスを受け取ってくれるのでしょうか。これは非常に難しい問題になっています。“委ねる”という行為の難しさは、双方にその準備が必要であることと、そこでやりとりされるものの質量の塩梅にあります。柔らかいゴムボールでふんわりとキャッチボールをしているつもりが、いつの間にか鉄球を時速100マイルで投げ込むようなスパルタンなことになってしまいかねないので(そうなると投げる側の負担もひどいことになりますね)、多元的、立体的に各要素を調整しながらパスを回していかないといけないわけです。

 ……そしてきっと、この“委ねる”主体の問題が立ち上がってきます。教師だけが委ねるのか。それとも。
 学校教育の話を学校教育の中だけで進めていくには少し厳しい時代なのかもしれません。