対比、対比、そして対比

 授業案の検討で、授業の参観で、教材文の分析検討で。
 「対比」について話題にすることが多くなってきました。何かしらのバイアスがかかってそう思っているだけだという可能性を残しながら、小学校国語科教育における「対比」の立ち位置、扱われ方、その他について自分なりに整理しようと思います。

 4年生の定番教材『一つの花』(今西祐行)は、俗に戦争教材と呼ばれることがあります。戦中戦後を通した登場人物たちの心情変化を叙述を通して読んでいくことを目指すと同時に、副次的に反戦感情や平和への希求を喚起します。「対比」を授業で扱うのは、この教材文での授業が最初でした。My first 対比。何それ。

 母親に食べ物をねだることしかできなかった主人公の少女“ゆみ子”が、10年を経て成長し、母に代わって食事を作るようになる、という時間経過による大きな変化があるわけですが、これが物語の冒頭と最終盤でそれぞれ述べられることで、対比の構造が成立しています。
 この他にも、配給される食料しかなかった時代から、肉か魚を選んで買うことができる時代へ。駅のホームの“はしっぽ”で忘れられたように咲いていたコスモスと、“ゆみ子”の家を包むコスモスのトンネル。対比、あるいは対比的な描かれ方がされたものをいくつも見つけることができます。
 中学年段階ともなると、言葉と言葉を並べながら対になるもの、ペアになるものを見つけ出すことは、ある程度スムーズに進めることができるようになります。「わあ、いろいろな対比が見つかったね。」となるのですが、向かうべきはそこからもう一歩先にあります。

 『一つの花』で校内向けの公開授業を行なった先生と話したのが、この「対比の先の話」でした。対比や対比的なあれこれを見つけていけばいくほどに、『一つの花』でいえば大きく変化したものが見つかるほどに、「変化しなかったもの」の存在が強調されていきますよね、という話。

 対比によって何が描かれているのか、から、対比構造の外にあるものへと着目していく。そこにこそ当の教材文を扱う意義があるんじゃあないのかなあ、そういう話をしながら、てなことを話しながら授業構想は続きます。