悲哀と生きて抗う 『ゴジラ -1.0』

 観ました。(23.11.17)

災害、あるいは哀しみとしてのゴジラ

 自分が小学生の頃に放映されていたシリーズ内でのゴジラといえば、“怪獣プロレスのスター選手”でした。“核兵器実験の結果生まれてしまった怪獣”という背景を背負ってはいるのですが、どうにもその色が薄まりつつあった時代のゴジラを観ていたように思います。仄暗かったりドス黒かったりする、ヘヴィな何かを背負った悲哀のようなものではなく、圧倒的タフネスと最終必殺技の熱線放射だけが前面に押し出され、自分と同格かそれ以上の相手とがっぷり四つで組み合う、そういう「今回も盛大にやり合っとるわ!」という派手な姿ばかりが記憶に残っています。
 『パシフィック・リム』などでもそうですが、とにかくでかいKaijuと巨大なイェーガーが殴り合うのはかっこいいし最高なのはそれとして、自分はゴジラにまでそれを求めるのか? という問いが持ち上がってきます。
 『パシフィック・リム』におけるKaiju対人類の対立は、作中では端的に“Kaiju戦争”と表現されており、また「イェーガーに乗り込んでKaijuを倒す」という全世界的プロジェクトで功績を残したパイロットたちが“ロックスター”並の人気を得ていたことが語られています。Kaijuの出現とイェーガーの出動、そして両者の激突はある種のエンタメとして消費されている様子が描かれており、太平洋沿岸の国々と都市が悲惨な状況にあったとしても、人々はイェーガーの活躍に、そのパンチに、冷凍砲に興奮していたわけです。サンダークラウドフォーメーション! 『パシフィック・リム』はそのようなエンタメ/娯楽作としての一面を強く見出すことができる、つまりは「作品としての軸足がエンタメ側にある」のです。

 じゃあ『ゴジラ -1.0』におけるゴジラはどうなのか。人類とどのように対置されているのか、その人類はどう描かれていたのか、という話です。
 もう端的に『ゴジラ -1.0』のゴジラは“どうしようもない、ままならない災害”だし、人類は“脆くて儚く愚かで切ない、か弱い存在”で、そこにエンタメ的要素や娯楽作としての色が入り込む余地は無かった、あるいはその余地を意図して潰した、というのが私の見立てです。つまりそれは、全人類の業を具現化した存在としてのゴジラであり、人類の弱さ愚かさをダイレクトに叩きつける存在としてのゴジラ、ということになろうと思います。ゴジラは出現するだけで場を極限状態へと変えてしまうのですから、それはまさに災害と同じです。誰にもコントロールできない、“ままならなさ”の象徴です。
 ゴジラ自身もまた、核兵器の放射線による望まぬ突然変異によって、破格の巨体と再生能力、反撃能力を手にしてしまったわけですから、本当にままならない存在なわけです。それはきっと、仄暗かったりドス黒かったりする、ヘヴィな何かを背負った悲哀へと繋がっていくのではないかと思います。『ゴジラ -1.0』におけるゴジラは、“災害”として、あるいは“悲哀を背負う者”として、一貫していたと思います。

“終戦”は誰のものだったのか

 終戦まもない日本を舞台とした『ゴジラ -1.0』において、人類たちを一貫したのは「あの戦争を、自分の中でどのように終わらせるか」でした。
 とにかく全員が何かしらで戦争が“終わっていない”ことで物語が駆動し、そして物語の最後に、彼/彼女らの戦争は“終わり”を迎えます。
 機銃の引き金を引けずに大戸島の整備兵を見殺しにしたことで結果的に生き延びた主人公・敷島は、同じく戦争が終わっていない人々との出会いを通して、生き残ろうとする意志を自分の中に見出します。「終わってない」ことを盾にして、自分を蛇蝎のごとく嫌う橘を引き込んだことが、結果的に最後の決め手となります。橘が用意した緊急脱出装置のレバーを、敷島が力強く引くあのシーンこそが、全員の中に残っていた戦争を終わらせたのだと感じました。
 敷島は明子の未来の為に生き残ることを選択した、という方が自然な選択に思えます(ストーリーとして安易な選択ではありますが)。そういう描き方をしなかったこと、明子を戦争に、ごく個人的な戦争に、巻き込もうとしなかったことで、「戦争に行かなかったことは幸せなことだ。」という秋津と野田の思いを補強して、敷島、ではなく敷島“たち”の戦争を終わらせることになったのだろうと思います。
 これは、個人の中の終戦の話ではなかった。先の戦争で生き残って“しまった”人々を余すことなく終戦に向かわせる話だった、ということです。戦争という国家的プロジェクトの中で、個人はどうしてもその顔を、思想を、人格を、つまりは人間としてのグラデーションを塗りつぶされて、軍という単一の存在にされてしまう。不気味でのっぺりとした単一の物質から抜け出して、個人という存在へと降りていく過程として、ワダツミ作戦があったのでしょう。誰もが、自分が個人として生きていくこと、個人として戦争を終わらせること、個人として抗うことを願っていて、その結実として雪風・響が相模湾を駆け回り、震電が飛び、緊急脱出装置が作動したのです。

「-1.0」

 ラストシーンの話です。銀座を瓦礫の山に変えた爆風を浴びてなお、奇跡的に生存していた典子の首筋に蠢く不気味な黒い痣。海中で新たな変化を見せるゴジラの肉塊。『シン・ゴジラ』(2016年・庵野秀明監督作品)においても、ラストシーンは新たなゴジラの胎動を予感させています。人知を超えた生命力で何度も人類の前に立ちはだかったゴジラとしては、ある意味では当たり前のラストシーンとして受け取ることができます。ゴジラが徹頭徹尾“災害”であることの証左でもあると言えるでしょう。
 1954年に公開された“初代ゴジラ”よりも少し前の時代を描いている、という点に「-1.0」の意味を見出してしまっている自分がいます。キャッチコピーは「敗戦によって無(ゼロ)となった日本は、ゴジラの出現によって負(マイナス)に陥った」と読めるのですが、そのことはあまり感じず、むしろ初代以前の、という意味合いが持たされているんじゃあないのかな、と考えています。まあ、この辺はいいとして……。
 全ての始まりとしての初代ゴジラがあって、でもその前に、生き残ってしまった全ての人たちの戦争を終わらせなくてはならない。その戦争が終わらないことには、ずっと負(マイナス)のままだ、と。敗戦は無(ゼロ)であり、そして自分の中の戦争が終わっていないことを自覚したとき、負(マイナス)が発生する。そんな感じでしょうか。
 ゴジラという存在の連続性、背負い続けている悲哀、終わらせたいという願い、そういったものがこの『ゴジラ -1.0』に込められているのでしょう。

 実はあまり期待せずに観に行きました。そういった予感をいい方向に裏切ってきた、という点でとても良い鑑賞体験になりました。