ああ勘違いの給食指導

 「給食指導を制するものが,学級経営を制する」らしい。まあそんなん大嘘もいいところなんですが,清掃指導と並んで給食指導というのは非常に重視されていることが多く,まさしく「Tokkatsu」大国日本,という感じである。当然,給食と清掃に大きな教育的意義と効果があることは否定しないのだが,因果や順序など,そういうものをすっ飛ばすとやっぱり訳がわからなくなる。そしてこれは,愚かしい勘違いを惰性で継続してきた私の告白でもある。去年やっと気づいた。

 給食時間が落ち着いていれば,確かに安定した学級と見ることができるだろう。給食を休み時間ではなく「全員で準備から片付けまでを一定時間内に遂行するプロジェクトである」と捉えられていることになる。ルールの遵守や危機管理,他者に不快な思いをさせないマナーに関する指導が徹底されていることになる。小学生男児なら目の色変えて参加したがるおかわりタイムでも,秩序が保たれている。最近であれば「黙食」も給食に求められるトピックになっているが,それを重要なミッションとして理解しているかどうかがわかる。

 たかが給食されど給食だ。同一の目的・目標を共有する集団であれば「全員で準備から片付けまでを一定時間内に遂行するプロジェクト」に対して常に前向きなエネルギーで臨むことができる。ルールが遵守されていれば,それは学校生活の他の場面でも見られる行動になってくるし,そもそもルール自体を尊重できるようになる。高度な危機管理,食事時のマナーについても,多くの場面に転用可能な汎用性のあるものだし,黙食はおそらく今後の社会で求められる振る舞いになってくる。
 「苦手な食べ物でも,一口食べてみたら?」という提案を「う〜んまあやってみるかな」と前向きに捉えられることだって,今後の彼ら彼女らにとっては重要なことだろうし,ひいてはその「まあやってみるかな」という言葉が出てくる時点でその児童の精神的なエネルギーは高いので,学校での活動に対して概ね安心して参加することができるだろう。
 給食時の姿から読み取れることはいくらでもあるが,それらが給食の時間のみによってもたらされた結果な訳がないので,この辺の読み取りは慎重かつ総合的に行う必要がある。順調に話が分からなくなっている。

 「給食指導を制するものが,学級経営を制する」。全く因果が逆だった。学級経営やこれまでの指導の結果・効果が一切のヴェールを纏わずに立ち上がってくるのが給食時間(あるいは清掃活動)なのであって,給食時のルール,マナー,プロトコルを徹底して指導してさえいれば学級がうまいこといく,などということは考えられない。
 んなこと言っても,給食指導を頑張ってたら学級が盛り上がってきましたよ,という実体験だってあろうかと思うが,それこそ因果の逆転を自分の中で起こしていると言える。別にその人は給食指導だけをやってきたわけではないから。行事も清掃も授業も生徒指導も,ありとあらゆる要素が一体となって学級経営を形作るわけなので「給食指導を制したから学級経営も制することができた」とは到底言えない。

 まあ何が言いたいかというと,北海道の夏休みは終わり,また給食指導の日々が始まるということである。(2021.8.15)