プログラミング教育の根本的な話

 「根本的な話でアレなんですけど……」と初任の先生は周囲に目を配りながら言うのだが,そういう話が実は求められていた,ということは往々にしてある。
「これってプログラミングの要素と言うか,パソコン使わせる必然性があったのかなって」
 私は一気に前のめりになる。ずばり私が授業を作るために頭を悩ませていた部分であり,そこに突っ込める人は案外少ないから。

 もちろん私なりに,その質問への答えは持っているし,話した。キモはそこではなく,彼は安易な正解を求めていなかった,ということだ。初任であっても,先輩が示した何某かの答えそのままを無批判に受け取ることにはっきりと「NO」を示したのだ。
 彼が出したキーワードは「授業における必然性」であり,それは,日々のあれこれに簡単に飲み込まれて見えなくなってしまう。その「必然性」を改めて掬い上げること,しかも,ドンピシャのタイミングで打ち込めることに,ちょっとした身震いを感じたほどだった。

 「正解のない,分からない時代」という安っぽい言葉。手垢のついた表現。正解がない,分からないのは昔からずっとそうで,なぜ今更になってそんなことを喧伝するのだろうか。多くの人たちの価値観が揺らぐ中で「正解のない時代」という言葉はあまりにも虚しく悲しく響く。かといって,何でもかんでも正解がないという態度を貫き続けるのはどうなのかな,とも思う。ニヒリズム的な立場が何を生み出すのかはよく分かっていないが。

 まだ考え続けなければならない。果てしない道を行くが如くだが,それは希望の道標でもあることを,私たちはよく知っている。知っているはずだ。