教員人生の羅針盤として 『教室マルトリートメント』

 川上康則『教室マルトリートメント』(東洋館出版・2022年)
 学校で、教室で、目立たない形で、でも確実に存在する「教師による不適切な指導や関わり」を新しく「教室マルトリートメント」と定義し、その発生機序や背景にあるものを解き明かしていきます。
 読むのがなかなかしんどかったな、というのが最初の所感で、その「しんどさ」がどこからくるのかを考えています。その源泉について平たく言うなら「心当たりがあるぞお」なんですけどもね。

 残酷で苛烈な権力機構としての”教師”という存在について、まずはその残酷さや苛烈さには自覚的でありたいと思っています。ただ、「自覚的でありたい」と宣言し、意識改革を標榜したところでそれらには何の効力もないでしょう。明日から世界の色はちょっと変わって見えるのでしょうけど、多分数日もすれば元の色に戻るのだろうなという予感があります。
 意識改革と呼ばれていたり、制度改革と呼ばれていたり、そういったものが目指している理念自体はとても素晴らしいものです。しかし、どうしても継続すべき推進力をもてずにズルズルと失速してしまっているケースがあるように感じています。
 なぜその”継続への意志”が失われてしまうのか。それはおそらく、「教師の人生」という大きな物語の流れの方向を変えたり、堰き止めたりするのに、一人の教師が持っている力は全く釣り合わない、とても小さいものでしかないからでしょう。自分の教師人生なのに、自分一人ではどうしようもないのです。
 教師人生を決定づけるもの。自分の親、家族。同僚、管理職。初めて学年を組んだ先輩教師、あるいは後輩教師。そして児童生徒と保護者たち。単なる人生ではなく”教師人生”となったときに、そこに関わる人の数があまりにも多くなってしまうのです。登場人物の多さは、教師人生のままならなさでもあるのでしょう。

 ままならなさとは言いましたが、当然その裏側には希望も隠されています。周囲の環境からくるままならなさを少しずつ変えていくことと、自身が変わっていくことは連動しているのだろうな、と本書を読んで強く思うことができました。「周囲の人」という姿をした希望とでも言いましょうか。
 教師を、学校教育を取り巻いている環境の厳しさ、難しさは年々強調されるようになってきていると感じます。それでもなお、人に希望を見出しながらこの仕事を続けていくことになるのだろうと思います。