「個別最適な学び」の所感

 少しずつ職員室に人が増えてくる。話す声が聞こえてくる。私たちは校務分掌というチームで、アレとかコレとかソレとかを話し合う。そういう声が聞こえてくるのだ。正月特有の静けさが好きだけど、いろんな人のいろんな声、いろんな場所のいろんな波長を浴びておかないといけないんだろうなと思う。そうして私は、また若い先生に自分の書いた文章を押し付ける。

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 いろいろ難しい話だったなあと思いながら、この文章を書いています。「個別最適な学び」というのは、正直自分にとっては手に余るどでかい話なので、断言できる部分がほぼないのですが、指導案を拝見しての所感を綴りますので、よろしければご一読ください。

 まず、「個別最適な学び」についてですが、これは昨年度くらいには「個別最適化された学び」という名前だったと記憶しています。ただ文言がちょっと変わっただけじゃないのか、とも思うんですが、言葉が変わるということはそこに意図があるということなので、考えてみましょう。個別最適なので、学習内容や教材を個別最適なものに「化け」させる必要があります。「化け」させるのは誰なのか、というと、教員でしょうね。でもそれだと「子供の学び」という側面が薄れるな、ということで「個別最適な学び」という呼び名になったのだろうと思います。

 で、個別最適化のことを考えると、これは「個別化・最適化」ではないんですね。つまり、先日の分掌打ち合わせでも話題になった「グラデーション」「切り分けが難しい」「一体化したもの」ということです。個別化は私たち特別支援学級の教員がやっていることです。最適化は、子供の反応や調子を見ながら課題を調整したり、発問を変えてみたりすること、と(無理やり)定義してみましょう。この二つは、逆にしても成り立ちますね。私が、特支学級の5年生にとって最も適していると思われる課題を探し出して課すことは最適化と言えるし、A先生が、B君の反応があまりよくないので言葉を変えてもう一度問いかけてみることは、個別化と言えなくない。ごちゃごちゃです。境界が曖昧で、どこで切ったらいいのかわからない。結局「個別最適」という「四字熟語」として考える必要があるということです。
 では、これを指導案レベルで、あるいは授業レベルで具体化していくためにはどうするか。

 究極の理想として私が考えているのは、最初の5分くらいで(あるいはもっと短い時間で)、教員が「今日はこのことについて考えてみようか」と話題を提示し、簡単な説明をする。子供たちがわーっとグループやペアで話し合ったり、クロームブックで検索したり、図を書いたり、本を引っ張り出してきたり、教科書を読み込んだり、担任や職員室の教員に聞きに行ったり、そういうごちゃごちゃした問題解決の過程を経て、40分後くらいに板書に一個今日のまとめができる。子供たちのノート(あるいはクロームブックとか)にはそれぞれの学びの到達点が記されている……。どうでしょうか。実際これができれば、教員は支援と評価(評定ではなく)に集中できますね。
 (「え〜そんなのうちのクラスでできるかなあ」という声もあろうかと思います。学習指導要領や文科省がここ最近、学級経営をクローズアップしているのは、この「うちのクラスじゃちょっと」という声に対する一つの答えだと言えるでしょう。)

 話がちょっとそれました。A先生の指導案についてですが、以上の話を総合すると、展開部分の「個人思考→全体交流」の部分をどれだけ拡大できるかが論点になると思います。子供たちに丸投げするのか、ある程度選ばせるのか。ここで気をつけたいのは、先生が「じゃあみんなでやってみよう!」と投げても、子供たちは今までやってきたことでしか考えられない、という点です。なので、A先生の学級の子供たちがどれだけの手駒を持っているかにだけ注意を払って考えることができればよいと思います。私はよく「丸投げ」を使いますが、これはいろいろな先生から「怖い」「先生何もしてないじゃん」「子供のこと信用し過ぎでは」「若い先生にそんな方法勧めるな」と言われます。ともあれ、今のA先生の学級が広げられる限界まで思考活動を広げてみる、というのが大まかな方向性になるでしょうか。

あと、
個人―ペアー集団―全体
思考―交流―対話―表現

 この8つの用語、便利なんですけど難しいですね。どれとどれを組み合わせるか。例えば「個人対話」とか「集団思考」とか。一見すると違和感があるんですが、どれも成立し得るんです。あるいは対話しながら表現する、交流しながら思考する、ということも起こり得ます。つまりこれらも「グラデーション」「切り分けが難しい」「一体化したもの」なのです。その辺りのことも考えながら、思考活動を考えていけるとよいかなと思います。