君はまだ天然色 「ガールズバンドクライ」
アニメ「ガールズバンドクライ」を観ました。率直に、またドラムをやりたくなっています。なんだかんだですばるちゃん、楽しそうだったね。
そういうわけで、とても良かったです。
抑圧的な家庭、理不尽な処遇を受けた高校の両方から逃げ出すように、そして自分が“負けていない”こと、“間違っていない”ことを証明するために単身で神奈川県川崎市に乗り込んだ主人公・井芹仁菜。
一人暮らしをして予備校に通い、自力で大学進学を、と意気込む中で、かつての自分を歌で救ってくれた憧れのストリートミュージシャン・河原木桃香と出会い、いつしか仁菜はバンド活動へと情熱を傾けていく……。
衝突と摩擦の中で
私の極単純化した作品の捉えは「まだ何色にも染まっていない10代の少女が、周囲との衝突や摩擦を通して自分の形を確認し形成し彩色して/されていく物語」でした。
繰り返される衝突と摩擦。すばるとその祖母・安和天童の食い違いを知りながら、それでも双方の思いを感じ取ったことで、すばるの告白を強制的に先送りさせる(第4話)。拙いギターを披露して、直截な物言いを躊躇ってきた海老塚智に「ままごと」「下手くそ!」と言わせる(第9話)。激しい相互作用を引き起こす存在としての仁菜は、とうとう桃香への「告白」により彼女の闘争心を呼び起こすことになります(第8話)。
第10話は最大の衝突と言ってもいいでしょう、仁菜と父親の再会と和解が描かれます。仁菜がこれまでに感じ受けてきた理不尽や屈辱、最も頼りにしていたはずの父親から援護がなかったことが語られます。
父親と共に向かった高校で、学校側はいじめの事実を認め仁菜に謝罪を申し入れますが、仁菜の答えは「もうやめて」。それに対して父親は「そんなことを言う必要はない。お前は被害者なんだ。」
この直後の仁菜の口元のカットは、何か気付いたかのように一度小さく開き、すぐにへの字に結ばれる。発声は伴いませんが、非常に雄弁なものに感じました。「大人の手によって守られなければならない」とする父親の言い分が初めて効力をもった、あるいは仁菜に対して実体をもったことを受け入れると同時に、“被害者”という表現に対して「被害者のままでいられるか。だったら戦い続けてやる。」という決意を固めた場面であると見ることができます。これまで避け続けてきた高校と父親との衝突によってついに固められた決意。
もはや、他者との衝突を繰り返し、摩擦の渦中でなければ自己の姿形を自覚できないのか、でもそれは「正論モンスター」としてのあるべき姿でもあると思います。すばる命名の異名ですが、同時にこれは仁菜のカリスマ性を強調している役割もあるでしょう(カリスマ性、というかなりボヤっとした言葉で話を進める自分に抵抗を覚えつつ)。
第11話における、テントでの仁菜とすばるの会話シーンがその象徴であると言えます。すばるは祖母にようやく女優ではなく音楽の道に進むことを告げたと話すシーンです。画面右側に座る仁菜には横幕の隙間から西日が差し込みますが、すばるの座る左側は横幕に遮られてやや暗い。すばるが仁菜のカリスマ性を認めたことが絵としても示されているわけですが、西日の作り出す明暗はそこまではっきりしたものではない。むしろすばるにもちゃんと光が当たっています。すばるにもまたカリスマ性が宿ることを示唆する演出ではないでしょうか。
思い返せば第6話において、トゲナシトゲアリの5人(厳密にはまだ新川崎(仮))が初めて音を合わせた際に走った光の帯は、各々のカリスマ性の萌芽であり、それは仁菜との衝突と摩擦によって、あるいはそこから波及した諸々によって磨かれていった、と言えるでしょう。
どうやっても曲げられない信念、自分の中の強固な思いを、13のエピソードによって確固たるカリスマ性にまで昇華することで、一度は手にしたプロ契約を放棄してフリーランスになるという、一見して無理無茶無謀な進路選択への説得力を高める。全ての衝突と摩擦はこのためにあったのでしょう。
1クール13話を通して、本作は「まだ何色にも染まっていない少女“たち”が、周囲との衝突や摩擦を通して自分、“そして自分たち”の形を確認し形成し彩色していく物語」へと緩やかに、そして確実に力強く変化していくのです。
アクセル、ブレーキ、「敗北」
さて、そんな仁菜から湧き上がる「負けていない」「間違っていない」というフレーズについては、物語の爆発的な原動力であると同時に、物語そのものに強烈なブレーキをかけているように見受けられます。矛盾する二つのベクトルですが、それが同時に存在できるのが「ガールズバンドクライ」の面白いところではないでしょうか。
仁菜にとっての「負け」「敗北」が決定的に輪郭を持ったのが第7話です。目の前の事象を恐れること、目を背けること、逃げ出すこと。ダイヤモンドダストを脱退し、その後飄々と過ごし続けている(ように見える)桃香の姿に対する正体不明の苛立ちは、「私自身を救済してくれた彼女の歌を信じたい」というポジティヴな源泉とのギャップによってもたらされている。たびたび桃香に突っかかっていくことで、物語の転がりが止まる、向きを変えてまた転がり始める、そういうブレーキの機能があるわけです。
桃香は桃香で自分自身の中に葛藤を抱えている。曲を作れば作るほどに、音楽を続ければ続けるほどに見えてくる壁の高さ、分厚さ。でも、仁菜ならばその壁を砕いてくれるのでは、と期待している。「なら私と砕きましょう。負けていない、間違っていないと証明するために。」という仁菜の姿勢は、桃香にとってはアクセルとしても機能します。
急ブレーキと急アクセルの繰り返し。転がり始めた物語を「でもその先にあるのは敗北なのでは」という自問によって堰き止めることが何度か繰り返されますし、時にはアクセルとブレーキを同時に床まで踏み抜くような、エンジンを焼き切るような乱暴な駆動力によって物語は推進されていきます。
本作のキャッチコピー「怒りも喜びも哀しさも全部ぶちこめ。」は、最終話の演奏シーンで象徴的に登場しますが、でもよくよく見返してみれば、乱暴な急制動と急発進を繰り返す中で、徐々に明らかになっていく怒り、喜び、哀しさが、第1話から全部ぶちこまれていたわけです。
川崎に横たわる一線と
本作を視聴する少し前に、佐藤究『テスカトリポカ』(角川書店・2021年)を読んでいました。中南米、東南アジア、そして神奈川県川崎市を舞台とするドラッグ・バイオレンス・臓器売買のアンダーグラウンドなお話(紹介が雑すぎる)。
わあ、川崎って怖いなあ、という“ド”が何個かつくような偏見をもってしまっているわけですが、おかげで足を踏み入れたわけでもない川崎市が、多摩川を挟んで東京都の対岸にあることも知れたわけです。
川崎に横たわる一線としての多摩川。首都圏に住んでいなくてもなんとなく聞いたことのある多摩川。その一つの流れが創り出す境界性。川の向こうに広がる世界とこちら、彼岸と此岸が象徴する「対比」をキーワードに本作を見ていくと、例えば5人の過去と現在についてだったり、ダイダスとトゲトゲだったり、仁菜とヒナだったり(本作ではむしろこの二人の対比の方が大きなテーマな気もしますが)があります。
ただ、多摩川=境界線=対比の象徴、という考え方はなんか安易な印象もあるので、むしろここは“越境”の象徴しての多摩川の存在を考えていくのが私の中では自然かな、という気がしています。
私の記憶でいくと、物語中に、明確に多摩川を越える、越えてどこかへ行く、という描写はなかったような気がします(『テスカトリポカ』では渡河の場面は何度か登場していたように記憶しています。まあ、登場人物みんな一線超えてたしな……)。
悲願のプロ契約を手にしながらも、最終的にはそれを手放す5人。
川崎のまちが好きだ、と宣言する仁菜。
結局戻ってくるいつもの吉野家。
一つの場所に留まり続ける、元いた場所に回帰するという、一見すると消極的選択をしたようにも見える行動です。
しかし、そうではなく「この場所からいかようにでも広がっていける、どこにでも飛び立てる」文字通りの本拠地としての川崎=多摩川の此岸を選んだ。そのように読み取ることが可能です。指を咥えて川の向こうを恨めしく見つめるでもなければ、慣れきった土地で安穏とするでもなく。
衝突を繰り返し、敗北を乗り越える、そんな過激な運動を継続していくための“ホーム”=「雑踏、僕らの街」があること。その選択を認めていくことができる5人であること。「誰にもなれない私だから」こその全13話なのだろうなと思います。
正直、書ききれていないことはありますし、ここまで書いては見たものの全然整理できてないなという感じですね。
視聴1周しかしていなくてどうにも煮え切らないので、この辺りで。