小4国語「ごんぎつね」

 秋である。日本全国の小学4年生、およびその担任にとっては「ごんぎつね」の季節である。もう季語にしてもいいような気がする。私が初めて4年生を担任したのが10年前。その年から数えて今年は4回目の4年生担任である。毎回、「ごんぎつね」に惹きつけられてしまう。「ごんぎつね」が特別な物語であってほしい。いつまでも心に残る作品として記憶されてほしい。独善的で傲慢な想いを抱きながら教科書のページを繰るのである。それでいいのかホントに。

 今もなお「ごんぎつね」についての分析や教材研究が試みられているし、4年生の国語で授業を公開するとなると、やっぱり「ごんぎつね」が選択される割合は高い。公開しなくたって、職員室では「ごんぎつね」の話がされる。授業の、単元の作り方はもちろん、1行トリビア的な話も飛び交う。「兵十って、火縄銃の用意めっちゃ早いですよね。何者なんですかね。」
 職務上の使命感、義務感で「ごんぎつね」と付き合うのだけど、そこにどうしても「『ごんぎつね』が特別な作品であってほしい」という願いが混入する。これまで3度、授業で「ごんぎつね」を扱ったが、かなりの割合で私のエゴが入り込んでいるのだろうなと思い返す。「マエダの『ごんぎつね』授業履歴」についての正直な告白である。

 百舌鳥の声がきんきん響くこと。月の良い晩であること。土間に栗が固めて置いてあること。そもそも、贖罪の食材を家の外から放り込んでいたのがいつの間にか屋内に立ち入って置くようになったこと。銃口から立ち上る青く細い煙のこと。これらを授業の中に押し込み、なんとか目の前の子どもたちに届かないかなと思案する。もっと器用にスマートにやりたいのだけど。

 物語は、フィクションは、その作者の意図が文字に、文に、物語全体に染み込んだ膨大な情報量を備えたものである。このことを教えてくれたのは「ごんぎつね」だ。教えてくれたと思い込んでいる、という方が正確なのかもしれないが、とにかく私にとってはそういう作品なのだ。
 「ごんぎつね」は今年で発表から90年である。100年目の年にまた巡り会えたら、どんな感慨をもつのかな、と少し楽しみにしている。