学校現場から見た「共生社会」のこと
パラリンピックの学校連携観戦を中止したり予定通り実施したりで首都圏の学校は大変そうである。世間では「学校の夏休みを延長するか否か」で侃々諤々だそうだけど,北海道はもう始まっちゃってるから,やっぱりテレビ画面を通じて知るそのニュースはどこか他人事で,なんとも言えない感情を呼び起こす。日本が北海道を中心にして語られることはない。北海道が網走を中心にして語られることがないのと同じように。
「共生社会実現のために,パラリンピックの学校連携観戦が果たす役割は大きい」というのはもちろんそうなのだが,当然忘れてはならないのが「学校連携観戦がきっかけとして機能すること」だし「観戦に向けての土台となる各種環境整備」であるし,疲弊が続く学校現場にそれをどこまで求められるかという話になる。
オリパラの学校連携観戦についてはいくつか壁があるように思う。それはコロナとかじゃなく,その一つ目は「ある特定の感情や感想を抱くこと」を目指されてはいないか,という点についてだ。これには充分注意しておく必要があると思う。
学校での観戦を行う場合には「知識及び技能」「思考力・表現力・判断力等」「学びに向かう力」とかの観点から目的・目標を整理しておく必要があるんじゃないかなと思うけど,それってどこが策定すんだろうかという疑問がある。やっぱり学校かしら。学校が行う事業なので評価も発生するんだけど,それってどうやってやんの,ということとか。まあとにかくいろいろ煩雑だったんじゃないかなというのは感じる。しかも学校は夏休み期間中ですし。
まあそういった諸々を乗り越えた先に何があるかというと,これまた大きな壁がある。
二つ目の壁は「学校連携観戦が共生社会を志向するきっかけとして機能する」あるいは「させる」ことで,これはまあべらぼうに高く分厚い壁なんじゃろうなと思う。というのも,ごく個人的な肌感覚ではあるが,多くの子どもたちは「共生」から遠い場所に佇んでいるから。「共生」とは対極の場所から助けを求めている場合が多いから。
全方位敵だらけの環境,正確にいうなら全方位に敵がいると「信じている」環境下にあっては,共生という望みは非常に朧げでぼんやりとしたものになってしまう。弱みを見せれば一斉に全員が襲いかかってくるような状況を想定して日々を過ごす子どもが,ここ最近増えたような気がしている。それは「子どもたるもの斯くあるべし」という模範やモデルの強調がここ数年で進んでいるからではないか。というところまで考えて,論拠が薄いのでこのまま塩漬けにしようかなと考えている。ただ「モデル」「スタンダード」という言葉が学校教育の現場で盛んに言われるようになったことと,仮想敵に囲まれた日々を想定している子どもが増えたことに何かしらの相関関係を見出してしまう。
子どもたちはありもしない敵との戦いに疲弊しているのではないか。そこにいるのは敵ではなく,あくまで他人であり,他人であるからこそ手を結べるのだけど。共生社会,というのはなかなかに難しい。社会の話だからだろうな。
ただ,共生社会に向けての可能性の話をするなら,私はやっぱり期待する。期待してしまう。そういう可能性についてを語ることもまた,教育という営為の重要な側面だろうから。