燃えよ国語

 また国語が燃えていた。読書感想文、漢字のとめはねはらいと謎の採点基準、「読解力」とか「国語力」なる謎パワー、そして「『ごんぎつね』の読めない小学生たち」ときたもんだ。

 発端はこちらの記事なのだが、この記事にある「国語力」の射程距離がよくわからないのである。まあそれはいつものことか。

 そも、「読めている」とか「読めていない」とか、それはどうやって判断しているのか、という話を考えている。
 発端の記事で言えば「かつて葬式で行われた、参列者へ食事を振る舞う風習」という知識と、「ごんが『ああ葬式だ』と思ったこと」が適切に接続されることが、すなわち「読めている」ということになってしまいかねない。Aという知識と、Bという叙述の適切な接続点を探すことが読むことなのか。でもそれは「読むこと」という営為のほんの一面でしかない。
 ある文章を読む。そこから様々に想像を膨らませて続き話を書く。このことだって「読むこと」に含まれる。業務遂行のマニュアルを読む。「でもこれじゃ、対応できない事態だって発生するのでは?」と考えてちょっと融通をきかせてみる。
 これらは確かに「文章上の意味からは外れている」のかもしれないのだが、決して無根拠に外れているわけではないし、「読めていない」として指弾されるべきものでもない。
 学校現場で求められているのは、一見「無茶苦茶な読み」「読めていないように見える読み」をどのように掬い上げて、どのように広げていくか、分析するか、なのかもしれない。

 それとは別に、「恐喝を認識できない女子生徒」は教育と福祉のバランスで言えばかなり福祉寄りな気がするけども。
 ままならない。ままならないですよホンマ。