プログラミング教育の先端と根っこ

 学校教育では結構いろいろな流行りがあって,思い出されるところでは「アクティブラーニング」「単元を貫く言語活動」「教えて考えさせる授業」「主体的・対話的で深い学び」あたりがあったが,最近はもっぱら「プログラミング教育」と「GIGAスクール構想」だ。
 面白いのが,いろいろな流行りがあったとしても,根っこの部分が全くといっていいほど同じであること・その根っこがめちゃくちゃにどでかいものであること・故に理解がはちゃめちゃに難しいこと。
 そして特に面白いのが,そういった流行り廃りがコンテンツとして消費され,「〇〇教育」「〇〇授業」「〇〇学び」の体裁をとった何がしかに,いつしか代替されていってしまうことだ。「対話的な学び」が「とりあえず喋らせとけ」と理解され,「単元を貫く言語活動(タンツラ)」が「物語読んでポップ作る」になったように。
 全然,全く,微塵もそうじゃない。そうじゃないんだけど,みんなコンテンツ的にしたくなっちゃう。そうして恐ろしい事態が,非常にまずい事態が,静かに確実に進行していくのだ。

 学習指導要領改訂により,プログラミング教育が一大トピックとして華々しく登場した。たくさんの予算が動いて,各都道府県で何校かが選抜されて研究実践推進校になった。そういう学校や,先行実践を重ねた学校がたくさんの成果を発表している。プログラミング教育の先端を走る人々。そのトップランナーが向かう先が,果たしてどんな地平なのか,私たちは知らない。本当にあなたが向かっているところがゴールなの? そう思うこともある。めちゃくちゃにどでかい根っこから伸びた枝葉が,どこで実を結ぶのか,誰も何も言えない。

 根っこの,そのめちゃくちゃにどでかい部分の話をしなくてはならない。根っこの話になると,みんな「目的がどうであるか」に着目しがちだが,私が言っている根っことは「プログラミング教育の目的」のようなスケールの話ではない。「プログラミング」という名前に引っ張られて,このスケールを見誤ってしまうことが往々にしてある。名前は呪いだから。
 つまるところ私は「プログラミング教育」も「GIGAスクール構想」も,もっというと「アクティブラーニング」「単元を貫く言語活動」「教えて考えさせる授業」「主体的・対話的で深い学び」も,みんなみんな,同じことしか言っていないと解釈している。「自分の頭と手を使って,うんと考えようぜ。一生懸命考えようぜ」と。それを見落とすと,結局scratchやmeshいじって1年間が終わる。「自分の頭と手を使って,うんと考える」ことを見落としたままでは,とんでもない事態に陥るだろうな,そう考えている。「自分の頭と手を使って,うんと考えているか」というフィルターがないと,これはコンテンツになっていく。コンテンツが全て悪いわけじゃない。じゃないんだけども,というちょっとした危惧が頭の片隅にいる。今日も,明日も,永遠に。