渓谷の町の確かな授業

 雪がちらつく中,渓谷の町へ行ってきた。「プログラミング教育ってどんなことをしたらいいのか,教えてください」そんな依頼を受けたからだ。日頃からプログラミング教育全然わからん,と言っている人間の話を聞きたいとは,などと卑屈になっても仕方ない。二重に失礼である。今自分が持っているものをちゃんと話すこと。誠実とはそういうものだろう。そう考えながら,片道2時間半のドライブである。

 無理を言って,授業も見せてもらった。3学級,15分ずつの参観だった。そこにあったのは「確かな授業」だった。少なくとも私は,そう感じた。感動すら覚える確かな授業だった。
 帰り道もまた2時間半のドライブだったが,私の胸には行き場を求める激しい奔流があった。静かな高揚。ただひたすら子ども達の目の輝きが思い出される帰途だった。

 きっと,お偉いさん達は「そんな結論を喧伝してもらうために,お前に金を払っているわけじゃねえ」と言うだろうな,そんな考えが浮かんでくる。
「『確かな授業』の前では,プログラミング教育だの的思考だの,理屈を捏ねても無意味だ。確かな授業を作る,やることが,何よりも優先されるべきだ。scratchだのmeshだのはその上で取り済ましているお飾りでしかない」
 もう,薄々みんな気づいているんじゃないだろうか。結局また,ここに帰ってくると。確かな授業は「〇〇教育」「〇〇授業」「〇〇学び」その他いろいろを超越して存在する。その時に,理論が何某かの手助けをしてくれることはあっても,「〇〇教育」自体が最上位に上ることはない。

 帰る頃には,しんしんと降っていた雪は止んでいた。雪は音もなく降り積もる。授業もそうだなあ,と思う。年間で1000時間の積み重ねが生まれるけど,日常の風景に入り込みすぎていて,その経過が意識されにくい。それでも授業は音もなく積もる。どこに? 子どもの心の中に,だったら,いいな。