プログラミング教育が抱える矛盾

 単純なプログラミング教育批判はたいていの人ができてしまう。やれ現場の教員がコードなんか書けるのか,やれ学校現場に入っているパソコンのスペックを考えろ,これ以上は学校現場が完全に飽和状態に陥るだろうよ,と。学校教育というのは日本国民のほとんどが経験しているため,批判,時に感情に任せた非難の対象になりやすい。正直,宿命でさえあると考えている。そして,世のプログラマと呼ばれる人たちは,あの難しいコードを書いて世のいろいろなものを動かしているのだから,降って湧いたようなプログラミング教育に,何か物申したくなるのもよくわかる。
 クイズ番組で「どれが電気を通す?」というクイズが出題されたが,「電圧は全てを解決する」とTwitterでツッコミが入ったのも,これと似た構図だ。誰しもが自分のテリトリでは話すよりも「語る」ことができる。そういう「語り」をもっと見聞きしたいと思う。

 プログラミング教育が抱えている矛盾は,その名前,ただ一点だ。
 「プログラミング教育が始まりますよ。なんせこれからはコンピュータが生活に欠かせませんからね。でも,小学校で始まるプログラミング教育は,プログラミングを目的とはしていません。ここ,気をつけて」
 道徳教育で道徳を扱う。防災教育では防災を扱う。プログラミング教育ではプログラミングを扱うことは扱うけど,それを主眼に置いていない,ということを本家本元の文科省が明言している。プログラミング教育の矛盾は,冒頭で挙げたような単純な批判の射程圏内に存在しない。めちゃくちゃ目の前にあるのだ。間合いが近すぎて見落としてしまう位置に。殴ろうとしても「えっ,そこにあんの!? えぇっ!?」となる位置に。

 文部科学省内の議論について,細かいところは全く分からない。しかし,担当する人たちはずいぶん苦慮したことだろうな,とぼんやり考える。
 なんせ,「プログラミング」と名付けることが本当に正しいのか。かと言ってどんな名前をつけるのが良いのか。誰にも分からない。
 名前は呪いだ。野村萬斎演じる安倍晴明がそんなことを言っていた。呪いの奥底にある何かを掬い上げねばならないが,そのための網を,見つけることがなかなかできないでいる。