年度末の教室大掃除について

 公立小学校の年度末業務に必ずと言っていいほど組み込まれる仕事の一つに「使用した教室の片付け・清掃」があります。この教室の片付け・清掃について私は、「指導要録の作成・確認」や「学級編成と引き継ぎ」に次ぐレベルで重要な仕事であると認識しています。指導要録は法的に必須なんですけども。職業上の使命感からなのか、それとも私個人の感覚からなのか。おそらくはその両方だし、この二つが複合的に絡まった結果なのだろうとは思います。

 さて、「なぜ教室の片付け・清掃を教員による素人仕事に頼るのか。外部委託ではダメなのか。」とする主張も聞かれるのですが、昨今の「何でもかんでも外部委託」の流れには少し危機感をもっています。それは、見逃し・落とし・漏れ・責任転嫁の温床になりうるからです。児童生徒が見逃し・落とし・漏れ・責任転嫁をしたなら、やはりそれは注意・指摘・指導の対象となります。教員自身と児童生徒を過度に接続して考えることの危険性もありますが、「自分が不充分なことを児童生徒に求める」ような微妙な“ズレ”には気を配らねばならないでしょう。この職業に課せられた呪いのようなものでもあるかなと思います。
 あと、「海外では外部委託が普通」の主張は、はっきり言って無意味ですので、ここで扱うつもりはありません。海外でも「児童生徒が自分の教室の清掃に取り組む」日本式の教育活動が取り入れられている現状は、反例として充分であると考えています。

 「なぜ教室の片付け・清掃は外部委託ではダメなのか」というより、「なぜ教室の片付け・清掃を教員がおこなってきたのか」を考える必要があるのではないか、更に言うと、「なぜ自分は年度末に教室の片付け・清掃をすることを受け入れているのか」を考えていきます。
 それは、教育活動や教職に対する憧憬、ロマン主義的な感傷が根底にあるように思います。

 大きな行事に向けて学級で制作した貼りもの、児童が残したメモや手紙、予備の配布物や教具がこんなところから出てきたぜ。国語で、算数で、いろいろやってみたけど少しは実を結んだのだろうか。次年度はもっとこんなことやってみたいな。
 次にこの教室を使うのはあの先生かな。どんな授業をして、どんな学級になるんだろうな。そしてあの子たちは、どんな活動をするのかな。せめて黒板だけでも気合い入れてきれいにしておくか。そして次年度の自分は、どうなるのかな。
 教室内から物を運び出し、床と棚と黒板と……に溜まった埃とチョークの粉を拭き取る。その作業の中で、過去と未来がないまぜになるような感覚に支配されます。過去と未来が混ざり合うその混沌とした意識の中で、教育活動への、こういってよければ情熱の火がまた燃え上がっていく。一つ物を運び出せば薪がくべられ、棚一つをきれいに拭き上げれば新しい空気が吹き込まれて炎が勢いを増す。そうして、過去に区切りをつけて未来へと踏み出す。燃え上がった炎が糸を切断するように、過去と未来が切り離されて「新年度という現在」が立ち上がってくる。
 
ある意味、新年度を改めて意識する儀式であり、自分自身が教員であり「教師と呼ばれる存在」であることを確かめる営為なのだろうと思います。

 もちろん、旧担任学年の指導要録を整理したり、新担任学年の準備を進めたりする中で、教育活動へ向かう情熱の火に薪を入れることは可能でしょう。新鮮な酸素を送り込んでいくことはできるでしょう。ただ、「教室=場」「教具=モノ」「教室にいる時間」から成る圧倒的現実と直面しながらの方が、きっとより大きく炎を燃え上がらせることができるのではないか。前担任が自分と同じように片付けと清掃を施した新しい教室で始める新学年の準備もまた同様に。
 私自身がそういったロマン主義的な思考/志向/嗜好に身をおいているので、そう考えているだけに過ぎないという留保はありつつも、そのように思います。