詩について あるいは個人的な振り返り

 今年度は特別支援学級担任として、5年生と6年生の児童を担当することになりました。5年生も6年生も宿泊行事が予定されているため、どちらも引率として出向くことになります。また、6年生は校内最高学年であり、年度末には卒業・進学を控えているため、児童も私もある程度の緊張感の中で1年を過ごすことが予想されます。
 そういうわけで、先週から構想していた詩の授業を終えましたので、その振り返りになります。この授業が、取り組みが、どのような結果の起点となりうるのかを考えながら、次の授業を構想していくために書き残そうと考えています。

 5年生は谷川俊太郎「かんがえるのっておもしろい」、6年生は高階杞一「準備」が、光村図書の教科書に掲載されている最初の詩です。1年間の国語の学習を始めるにあたって、ぴったりの詩であろうと思えます。が、それはあくまで私たち教師の捉えや感覚、解釈でしかありません。この詩によって鼓舞されているのは自分たち教師、もっと言うと「教師である自分が鼓舞されていると“感じさせられている”」可能性を考えなくてはなりません。
 もちろん、「教科書の詩が、谷川さんが、高階さんが、ぼく/わたしを励ましてくれている、応援してくれている!」と受け取る児童も一定数はいるのですが、そこに教師がタダ乗りするのは大変な危険性を孕んでいます。タダ乗りすることで「そういった解釈をもつことがこの授業の正解である」という空気を教室内に蔓延させるからです。
 「正解のない時代」とか「正解を自分たちで創り出す時代」などとそれっぽい言を掲げれば国語科の面白さはある程度演出できるのですが、どうしたってその潮流を乗りこなせない児童の存在を考慮しなくてはなりません。「正解がないなんて言ってるけど、どーせあんでしょ。ほらー、やっぱあんじゃん。」となるとそれはもう最悪ですね。考えたくない。
 まあ、国語科は正解がない、というのはあくまで綺麗事を通り越した世迷言でしかなく、求められているのは正解ではなく、高い妥当性をもった(自分の中で最大級に納得できる、と換言しても可)解釈を自分の中に打ち立てることなのです。

 長めの前置きを経て、ではマエダの詩の授業はどうだったのか、という個人的な話に入っていきます。
 まず5年生の国語科教科書(光村図書)に掲載されているのは以下の詩です。

かんがえるのって おもしろい
どこかとおくへ いくみたい
しらないけしきが みえてきて
そらのあおさが ふかくなる
このおかのうえ このきょうしつは
みらいにむかって とんでいる

なかよくするって ふしぎだね
けんかするのも いいみたい
しらないきもちが かくれてて
まえよりもっと すきになる
このおかのうえ このがっこうは
みんなのちからで そだってく

谷川俊太郎「かんがえるのっておもしろい」

 6年生はこちらです。

待っているのではない
準備をしているのだ
飛び立っていくための

見ているのではない
測ろうとしているのだ
風の向きや速さを

初めての位置
初めての高さを
子どもたちよ
おそれてはいけない
この世のどんなものもみな
「初めて」から出発するのだから

落ちることにより
初めてほんとうの高さがわかる
うかぶことにより
初めて
雲の悲しみがわかる

高階杞一「準備」

 どちらの詩も、これから始まる学習への期待感を高めたり、背中を押したりするようなメッセージを感じ取ることができますが、当然そのメッセージを受け取っているのは教師/授業者/私であるという点に留意しなくてはなりません。
 二つの詩に共通するのは「未知」について描いている、ということになろうかと思います。
 未知の世界への挑戦、あるいは未知の世界そのものを賛美し、未知への挑戦、あるいは未知そのものにどのような価値があるのかを、全く異なる書きぶりで表す。ここに教科書会社としての光村図書の意図があると言えます。
 この二つの詩に“同時に”出会えたことだけでも、今年度の5・6年生を担当することになってよかったなと思えます。もうこの時点で、教師/授業者/私が詩から放たれるメッセージを過剰に増幅して受け取っていることになるわけですが、まあなんとか抑えながらやっていきましょう。

 まずは音読です。国語における音読の効能はかなり強調されています。言語の身体化、あるいは身体の言語化。新しく出会う言葉や、その言葉がどのような順序で並べられているか、どのようなリズムを生み出すかについては、音読を通して理解していくことになります。

 さて、いよいよ詩の内包するメッセージに踏み込んでいく段になります。実際に児童がどういったメッセージを感じ取っていたか。
 5年生の児童は、「まえよりもっと すきになる」という一節から、何かを好きになることの重要性、あるいはその“好き”が進化していくことの大切さを読み取っていました。別の児童は「みんなのちからで そだってく」の一節から、みんなの力で想像/創造したことが人を笑顔にする、というイメージを膨らませていました。挿絵の影響もありそうです。
 6年生の児童は、頻出する「初めて」に着目し、初めの一歩に挑戦していくことの重要性だったり、分からないことが分からないままでいることの据わりの悪さを考えているようでした。統合するなら、何事もやってみなくちゃ分からない(大科学実験で)、ということになろうかと思います。や、科学実験はしないですけども。
 「雲の悲しみがわかる」という一節から何かを導き出そうとする児童もいました。空に浮かぶ雲が、実は悲しんでいるのではないか。想像上の話とは言えど、小学生にとっては少し突飛なイメージです。そこに何かを見出そうとする思考は想定にはなく、感心している自分がいました。
 以上の意見や考えが出揃ったところで残念ながら時間切れとなり、別の機会に改めて児童の意見を振り返らせたり、総評したりすることになりました。

 とまあ、1時間の授業としてはここで終わるのですが、ここで獲得したあれやこれやを使いながら、あるいは思い出しながら次の授業へと向かっていきます。ある意味では、児童が詩から受け取ったことは、これからの学習の里程標となるでしょう。なると思い込んでいる、思い込みたいだけなのかもしれませんが。
 また何か授業のことを報告できたらと思っています。