問われ続ける学級経営 <6月>

 最近は運動会を春〜初夏で行う学校も増えているそうです。まあ、いろいろです。どの時期にやってもポジティヴな予測と結果、ネガティヴな予測と結果はついて回ります。ただ、学校がコロナ禍から立ち直り始めている時期にあって、こういった話が活発になされるのは歓迎されて然るべきなのだろうなと思います。
 運動会に伴って、やはり学級や学校という空間が落ち着きなく動いてしまって、諸々が発生するのはよくあることなのですし、毎年それに留意していても、やっぱり何かが起こってしまうわけです。

 6月。じゃあ私は何を考えて何に留意していたか。
 すごくざっくりと“言葉”であろうかな、と思うわけです。

 光村図書の小学5年生・国語に『言葉の意味がわかること』という教材文があります。心理学、特に発達や言語の分野での大家である今井むつみ氏の書き下ろしで、言葉や言語という難解な構造をもった概念について、その深淵の入口まで誘ってくれる名文です。
 この教材文を扱った授業をした関係もあるのでしょう。学級に飛び交う言葉や自分が発する言葉についてやはり少し敏感になったような心持ちでいます。実際はどうなのでしょうか、わかりません。

 言葉がどれだけの力をもっているかについて、私たちはどうしても過小に評価するか、過大に評価するかの両極端に近い立場に立ってしまうことが多いように思います。結局、教室や学級や学校という時空間を形作る一要素でしかないのかもしれませんし、一要素であるからこそ、その他の要素と連動して何か大きな力を生み出すのかもしれません。ただ、そこに気を配ることができたのなら、もっといろいろなことに気づけるのかなとも思います。
 言葉について、その可能性について。夏休みまであとわずかです。